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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年10月16日祈祷会(箴言7章、不倫のもたらす災いを見つめよ)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.不倫の誘惑に負けた時

・箴言には「不倫をするな、夫ある女性との交わりを避けよ」という戒めが繰り返し出てくる。それだけ不倫は誘惑が大きく、また誘惑に負けた時の代償が大きいことを、箴言の著者は知るからである。
−箴言5:3-14「よその女の唇は蜜を滴らせ、その口は油よりも滑らかだ。だがやがて、苦よもぎよりも苦くなり、両刃の剣のように鋭くなる・・・あなたの道を彼女から遠ざけよ。その門口に近寄るな・・・さもなければ後になって、肉も筋も消耗し、あなたは呻き、言わなければならない『どうして、私の心は諭しを憎み、懲らしめをないがしろにしたのだろうか・・・会衆の中でも、共同体の中でも、私は最悪の者になりそうだ』」。
-箴言6:25-35「彼女の美しさを心に慕うな。そのまなざしのとりこになるな。遊女への支払いは一塊のパン程度だが、人妻は貴い命を要求する。火をふところにかきこんで、衣を焼かれない者があろうか・・・人妻と密通する者は意志力のない男。身の破滅を求める者・・・夫は嫉妬と怒りにかられ、ある日、彼に報復して容赦せず、どのような償いをも受け入れず、どれほど贈り物を積んでも受け取りはすまい」。
・7章では著者は、自分の家の窓から見た光景として、不倫の物語を物語る。彼は愚かな若者が一夜の快楽を求めて、女の家に向かう様子を見た。
-箴言7:6-9「私が家の窓から、格子を通して外を眺めていると、浅はかな者らが見えたが、中に一人、意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。通りを過ぎ、女の家の角に来ると、そちらに向かって歩いて行った。日暮れ時の薄闇の中を、夜半の闇に向かって」。
・まもなく若者は一人の女に出会う。彼女は熟練した誘惑者であり、未熟な若者を言葉巧みに自分の家に誘う。
-箴言7:10-15「見よ、女が彼を迎える。遊女になりきった、本心を見せない女。騒々しく、わがままで、自分の家に足の落ち着くことがない。街に出たり、広場に行ったり、あちこちの角で待ち構えている。彼女は若者をつかまえると接吻し、厚かましくも、こう言った『和解の献げ物をする義務があったのですが、今日は満願の供え物も済ませました。それで、お迎えに出たのです。あなたのお顔を捜し求めて、やっと会えました』」。
・彼女は若者に「夫は旅に出て不在であり、家には寝床の支度が出来ている」と誘う。
-箴言7:16-20「寝床には敷物を敷きました、エジプトの色糸で織った布を。床にはミルラの香りをまきました、アロエやシナモンも。さあ、愛し合って楽しみ、朝まで愛を交わして満ち足りましょう。夫は家にいないのです、遠くへ旅立ちました。手に銀貨の袋を持って行きましたから、満月になるまでは帰らないでしょう」。

2.不倫は人を人生の墓場に導く

・若者は無抵抗に女に従う。一夜の快楽が彼を墓場に導くことも知らずに。
-箴言7:21-23「彼女に説き伏せられ、滑らかな唇に惑わされて、たちまち、彼は女に従った。まるで、屠り場に行く雄牛だ。足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。やがて、矢が肝臓を貫くであろう。彼は罠にかかる鳥よりもたやすく、自分の欲望の罠にかかったことを知らない」。
・不倫は人を人生の墓場に導く。今までどれほど多くの若者が人生を誤ったことか、著者はその危険性を戒める。
-箴言7:24-27「それゆえ、子らよ、私に聞き従い、私の口の言葉に耳を傾けよ。あなたの心を彼女への道に通わすな。彼女の道に迷い込むな。彼女は数多くの男を傷つけ倒し、殺された男の数はおびただしい。彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る」。
・人生を誤る原因は知恵のなさである。知恵は聞いただけでは十分ではない。知恵の言葉を聞き、それを「心の中の板に書き記」し、その戒めを守らなければ意味がない。
-箴言7:1-5「わが子よ、私の言うことを守り、戒めを心に納めよ。戒めを守って、命を得よ。私の教えを瞳のように守れ。それをあなたの指に結び、心の中の板に書き記せ。知恵に『あなたは私の姉妹』と言い、分別に『私の友』と呼びかけよ。それはあなたをよその女から、滑らかに話す異邦の女から守ってくれる」。

3. 不倫のもたらすもの

・不倫とは、倫理から外れたこと、人の道から外れたことを意味する。近年では特に、結婚制度(一夫一婦制)から逸脱した男女関係、すなわち配偶者のある男や女が配偶者以外の異性と恋愛し、性交を行うことを指して用いられる(配偶者のいない男や女が、配偶者がいる異性と恋愛し、性交を行う場合も含む)。古くは姦通、不義密通と言った。単に夫や妻のいる男性や女性が他の異性と性的交渉を持ったとしても、相手方の合意があれば犯罪行為とされず、刑事罰は問われない。しかし、その代償は非常に大きい。家庭や友人関係を崩壊させ、経済的・精神的に深刻な打撃を受け、社会的信用はもとより、自身の社会的な基盤すらも失う可能性がある。
・不倫の最大の代償は離婚であろう。不倫は民法第770条の離婚事由に相当し、家庭崩壊の場合は配偶者に訴訟を起こされることがあり、慰謝料などの民事責任に問われることになる。厚生労働省「平成21年人口動態統計」では、過去40年間の婚姻数が3202万人、同じく40年間の離婚数が748万人となっており離婚率は23%、「4組に1組が離婚」と比較的高い数字が出ている。離婚の申立理由は男女ともに「性格が合わない」が1位である(男性の6割、女性の4割)。実際には、他の異性と関係を持ったり、お金を浪費したり、相手に暴力を振るったことが原因で離婚するケースでも,社会的な体裁を気にして「性格の不一致」を理由にすることが多い。
・人は、結婚から大きな利益を得るが、離婚により、その利益は失われる。結婚している男性は、より健康で、精神的に安定し、より長生きする。結婚している女性は、独身、同棲中、離婚した女性と比較して、経済的に、より豊かになる。ストレスが少なく、幸福感がより強くなる。また両親が結婚している子供は、片親や、親が再婚後の子供と比較して、学業成績がより良好で、精神的なトラブルが少なく、成人してからの社会的地位がより高く、結婚生活もうまく行く。子供は両方の親から多くを学ぶのである。また結婚した家庭は、地域における人間関係の拠点になり、社会のネットワークに貢献する。離婚により、こうした結婚の利点は失われる。
・バージニア大学・ヘザーリントンは、実証的研究を行って次のように述べた。「両親がそろっている子供のうち、精神的に問題が無い子供は90%であり、治療を要するような精神的なトラブルを抱えている子供は10%であるのに対して、両親が離婚した子供では、それぞれ75%と25%である。」(1993年)。離婚が子供に悪影響を及ぼすことについて、多くの国で大規模な追跡調査が行われ、悪影響が実際に存在することが確認された。

4.不倫(姦淫)についてイエスは何を語るのか

・不倫あるいは姦淫について語られる代表的な箇所はヨハネ7:53-8:11であろう。箴言は男性の立場から不倫を語るが、イエスは弱い者の立場から不倫の問題点を語る。
−ヨハネ7:53-8:11「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、神殿の境内に入られると・・・そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った『先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか』・・・イエスは身を起こして言われた『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい』・・・これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか』。 女が『主よ、誰も』と言うと、イエスは言われた『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない』。
・この物語(ヨハネ7:53-8:11)は、新共同訳聖書では〔 〕の中に書かれている。「後代の加筆と見られているが、年代的に古く重要である箇所を示す」しるしである。ヨハネ福音書の古い写本の中には記載がなく、後代の加筆の可能性が高く、資料的な問題があるという記号だ。しかし、伝承そのものは古く、イエスに由来することは争いがない。仮にそうだとすると、最初に聖書を編纂した人々は何故この古い伝承を受け入れなかったのか。それは罪を犯したにもかかわらず、その罪を無条件に赦すイエスの態度に、教会の人々が戸惑ったからだと思える。「十二使徒の教訓(ディダケー)」2:2に「犯してはいけない罪」が列挙されており、最初が殺人、二番目は姦淫である。編纂者は考えた「姦淫のような重い罪を犯した者を無条件で赦せば、教会の秩序は保てない。いくらイエスの言葉だからと言って受け入れがたいではないか」。その結果、この記事は当初は福音書に編入されず、後に福音書の一部として、承認されたと考えられている。
・しかし、これはイエスの心を斟酌しない解釈だと思える。イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない。・・・これからは、もう罪を犯してはならない」、この言葉は無条件の赦しではない。正確に訳せば「もうあなたは罪を犯すことができなくなった」との意味になる。「裁きは為された、しかし処罰が猶予された」、罪を犯したのに赦されるとは、刑の執行が猶予されていることを示す。ここに、人を滅ぼすための裁きではなく、人を生かすための裁きがある。女を律法通り石打の刑で殺した時、一人の命が失われるだけで、そこには何の良いものも生まれない。しかし、女に対する処罰を猶予することによって、女は生まれ変わり、新しい人生を生き始め、やがてその女から命の水があふれ出し、周囲の人を潤し始める。ここに本当の罪の裁き、イエスの為された裁きがある。

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