江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年7月17日祈祷会(雅歌6:1−12、おとめたちの歌)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

−「雅歌」の聖書正典中の位置は、現代日本語訳聖書のような配列ではなく、時代による多様な配列の変化を経てきている。メギッロ−ス(五巻の書物)という配列は「雅歌」とって注目に値するので特記しておく。メギッロ−スは、その初期著者の年代順の影響を承け「ルツ記」「雅歌」「コヘレトの言葉」「哀歌」「エステル記」の順に配列されていた。
−「雅歌」「コヘレトの言葉」と続くのはソロモンがその統治の経験から記したというテキスト本文の重みからである。しかし、配列はそのままではなく、五世紀から九世紀にかけて、「雅歌」「ルツ記」「哀歌」「コヘレトの言葉」「エステル記」と変化していった。
−変化はユダヤの年間の祭りに従ったからである。「雅歌」はその描写が春であることから、三、四月の大麦の収穫を祝う祭りを起源とし、後に民族救済の意義を持つ祭りに読み変えられ、「過ぎ越しの祭り」で朗読された。そして四、五月の「刈り入れの祭り」は「ルツ記」でそれはポアズの畑での収穫の物語と重なるからである。それに続くのが七、八月ノ「嘆きの祭り」である。これはバビロニアによる神殿崩壊の記念で当然「哀歌」が当てられた。
−このようにして配列されたメギッロ−スの中で「雅歌」はその表現において際立っている。それは春への喜び、色とりどりの花々と、新緑の木々、生き生きと山野を駆け巡る動物たち、それらを背景として人生の春を謳歌する若い男女の恋の詩だからである。「雅歌」は「旧約聖書」中、その恋愛の文学的表現において際立っているのである。
−おとめたちの歌−
雅歌6:1「あなたの恋人はどこに行ってしまったの。だれにもまして美しいおとめよ、あなたの恋人はどこへ行ってしまったの。一緒に探してあげましょう。」
・前章でおとめが恋人自慢をしたのを承けている。おとめの自慢で恋人の素晴らしさはよくわかりました、では一緒に探しましょうとおとめたちが合唱で誘いかける。
−おとめの歌−
雅歌6:2−3「わたしの恋しい人は園に、香り草の花床に下りて行きました。園で群れをを飼い、ゆりの花を手折っています。恋しいあの人はわたしのもの、わたしは恋しいあの人のもの、ゆりの中で群れを飼っているあの人のもの。」
・せっかくのおとめたちの申し出に対して、おとめの返事はつれないものである。恋人はすでにわたしの園にいるし、彼はわたしのもの、わたしは彼のものと手放しで自慢する。
−若者の歌−
雅歌6:4−7「恋人よ、あなたはテイルッァのように美しく、エルサレムのように麗しく、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。わたしを混乱させるその目を、わたしからそらせておくれ。あなたの髪はギレアドを駆け下る山羊の群れ、歯は雄羊の群れ。毛を刈られ、洗い場から上って来る雄羊の群れ。対になってそろい、連れあいを失ったものはない。ベ−ルの陰のこめかみはざくろの花。」
・若者からおとめへの賛辞、テイルッアは北王国の都、エルサレムは南王国の都、恋人はその二つの都のように美しい。旗を掲げた軍勢は王直属の正規軍、攻められた方は混乱するだけ、恋人の魅惑の前にわたしは混乱するだけ、だから王の軍勢のように恐ろしいのだ。髪と歯とこめかみについては4章にも同じ賛辞があるから、賛辞の定番とみられる。
雅歌6:8−9「王妃が六十人、側女が八十人、若い娘の数は知れないが、わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘、産みの親のかけがいのない娘。彼女を見ておとめたちは祝福し、王妃も側女も彼女をたたえる。」
・ユダやイスラエルの王たちのハレムと比べ、ただ一人の恋人への純粋な愛を表わす。ソロモンには「七百人の王妃と三百人の側室がいた。」(列王上11:3)その子「レハベアムは十八人の妻と、六十人の側室を持っていた」(歴代下11:21)
−合唱−
雅歌6:10「曙のように姿を現わすおとめは誰か。満月のように美しく、太陽のように輝き、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」
・おとめの美しさを曙、満月、太陽にたとえたえる。そして、再び旗を掲げた軍勢のように恐ろしいと繰り返す。
−おとめの歌−
雅歌6:11−12「わたしはくるみの園に下りて行きました。流れのほとりの緑の茂みに、ぶどうの花は咲いたか、ざくろのつぼみは開いたか、見ようとして。知らぬ間にわたしは、アミナディブの車に乗せられていました。」
・おとめはぶどうの花は咲いたか、ざくろのつぼみは開いたかを見ようとして、くるみの園に下りたが、気づかぬうちにアミナディブの車に乗せられていた。というくだりで、突然6章は終わってしまう。いったいアミナディブの車とはどんな車なのか。おとめのその後はどうなるのかは書かれていない。「アミナディブ」は、「雅歌」の時代なら「アミナディブ」と聞くだけで誰にもわかるほどの、有名な貴族であったらしい。そのアミナディブの車に知らぬ間に、乗せられていたというおとめのその後についてはなにも書かれていない。しかし、アミナディブの車は、おとめを幸せにする車だったようである。

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