・コヘレトは人間の幸、不幸を考察し、真の幸福とは何かを追求した。貧乏は人の不幸の一因だが、裕福な人々が、必ずしも幸福でないことはよく知られている。逆に貧しい人々がすべて不幸だとは言い切れない。人の幸不幸を分けるのは、貧冨が原因であることを否定できないとしても、それだけで幸、不幸は判断できない。
-コヘレト6:1−2「太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。ある人には冨、財宝、名誉を与え、この人の望むところは、何一つ欠けていなかった。しかし神は、彼が自らそれを享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」
・これは例えである。他人から羨やまれている裕福な人がいたとする。彼は人も羨む冨と財宝、そして名誉を手に入れたが、神は彼が得たものを受け入れ、味あう時間を与えなかったので、彼の生涯は短く終り、その結果、彼が自ら築いた冨と財宝は他人が受け継ぎ、他人が享受することとなった。彼の生涯は空しく、彼は不幸であった。
-コヘレト6:3−4「人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が幸運だとわたしは言おう。その子は空しく生まれ、闇の中に去り、その名は闇に隠される。」
・これも例えである。孤独な者からみれば、財を成し、大家族に囲まれ、長寿に恵まれた人の生涯ほど、羨ましいことはない。しかし、彼は、彼の長い生涯で得た財産に満足できないまま、その生涯を終えてしまった。それだけでなく、彼は家族から疎まれ、憎まれていたのか、死後は葬儀もしてもらえなかった。「棺を蓋いて事定まる」と諺のとおり、彼の生涯の価値は、彼の死後に定まるとすれば、家族に葬儀もしてもらえなかった、彼の生涯は空しかったことになる。そんな生涯で終わるぐらいなら、太陽を見ることもできかった流産の子のほうが、人生の労苦を味わずに済んだだけ幸いなのである。
-コヘレト6:5−6「太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべての者は同じ一つの所に行くのだから。」
・再び流産の子と、二千年の長寿の例えを用い、幸福でなければ、人生は無意味で生きるに値しないとコヘレトは言う。それでは何をもって幸福と言えるのだろうか。コヘレト5:18によれば「神から冨や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦を楽しむ。」こととなる。例として創世記50章の、わが子ヨセフに盛大に葬られたヤコブのように「多くの子供を生み、長生きし、終わりを全うすること」などが考えられるが、ヤコブのような幸福な生涯を送ったとしても、コヘレト6:5−6でいうように「千年の長寿を二度繰り返したとしても、その与えられた幸福に満足がなければ、その生涯は流産の子の方が幸い」となるようなら。幸福とは言えないのである。幸福は当人が自らの幸福を自覚できるか、できないかで決まるのだろうか。
-コヘレト6:7−9「人の労苦は口のためだが、それでも食欲は満たされない。賢者は愚者にまさる益を得ようか。人生の歩き方を知っていることが、貧しい人の何かの益となろうか。欲望が行き過ぎるよりも、目の前に見えているものが良い。これまた空しく、風を追うようなことだ。」
・欲望が満たされない時、人は空しさを感じる。人は生きる限り、食べる為の労苦は避けられない。しかし、人がその労苦で得たものに満足できなければ、さらに求める。そして求め続けて、満たされることがなければ、果てしない欲望に振り回されることになる。人生の歩き方を知っている賢者でも、欲望は制御できないのだから、愚者にまさるとはいえない。行き過ぎた欲望は満たされることなく、空しさだけが残るのである。
-コヘレト6:10−12「これまでに存在したものは、すべて名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分より強いものを訴えることはできない。言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」
・神は天と地のあらゆるものを創造し、それぞれの役割を与えられた。人間も創造の初めから、その性質を神はよくご存知である。人間は神にまさる者ではなく、その生涯は影のように短くはかなく、真の幸福を悟っていないのである。人の生涯の意味を教えられるのは神のみである。
2013年4月24日祈祷会(コヘレトの言葉6:1−12、コヘレトの幸福論)
投稿日:2019年8月21日 更新日: