1. 不正に対する告発
・アモス書にはアモスの見た5つの幻が記される。第一の幻はイスラエルを懲らしめるためのイナゴの害であり、第二は日照りによる飢饉の発生であったが、いずれもアモスが執り成すと、主は断念された。しかし、三番目の幻は取り消されない。測り縄(下げ振り)の幻が示され歪んだ城壁は取り壊されるように、イスラエルもその歪みのために取り壊されるとアモスは悟る。四番目の幻は一籠の夏の果物(カイツ)の幻であった。秋になって夏の果物が終わるように、イスラエルも最後(ケーツ)を迎えるとアモスは示される。猶予の時(第一、第二の幻)は過ぎた、イスラエルの滅びは決定した。主の御心は変えられないことがこの幻を通して示される。
-アモス8:1-3「主なる神はこのように私に示された。見よ、一籠の夏の果物(カイツ)があった。主は言われた『アモスよ、何が見えるか』。私は答えた『一籠の夏の果物です』。主は私に言われた『わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。その日には、必ず宮殿の歌い女は泣きわめくと主なる神は言われる。しかばねはおびただしく、至るところに投げ捨てられる。声を出すな』」。
・「もはや、見過ごしにすることはできない」、神の民が一方では神殿礼拝を行いながら、他方では不正を行い、それを悔い改めようともしなかったからだ。
−アモス8:4-6「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう』」。
・エファ升は麦を売る時に量る升で、天秤は受け取る金の重さを量る。商人が数量をごまかして不正に利益を上げ、人間を奴隷として売買して儲けている。彼等の関心は地上のことのみ、現実だけであった。そこには、隣人に対する責任も人間の尊厳に対する敬意もない。それは神の民の業ではない故に、彼等は滅びなければいけない。
−アモス8:7-8「主はヤコブの誇りにかけて誓われる『私は、彼らが行ったすべてのことを、いつまでも忘れない』。このために、大地は揺れ動かないだろうか。そこに住む者は皆、嘆き悲しまないだろうか。大地はことごとくナイルのように盛り上がり、エジプトの大河のように押し上げられ、また、沈まないだろうか」。
・神の裁きが為されると、喜びは悲しみに、祭りの衣装は粗布の喪服となる。先に地震の被害が報告されたように、ここでは日食についてアモスは報告する。古代の人々は天変地異を神の怒りと見た。
−アモス8:9-10「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」。
2.神の言葉への飢餓
・主は恐るべき飢餓をイスラエルに送られるとアモスは預言する。それは食物や水の欠乏よりも激しく人々を打つだろう。それは「神の言葉」の飢餓である。
−アモス8:11-12「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない」。
・「人はパンだけで生きるのではない」、パンと水の欠乏は肉の生命を脅かすが、神の言葉の欠乏は霊の生命を滅ぼす。神の言葉を見失った典型がニヒリズムではないだろうか。ニヒリズムは「神はいない、絶対的な真理はない、死んだらすべては終わる」と考える。「すべてが空しい」というニヒリズムを徹底すると、そのプロセスの過程で心身を病み、自殺するしかなくなる。「神の言葉の欠乏」は、人間を「生きたまま死なす」災いである。
-コヘレト2:10-11「目に望ましく映るものは何一つ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をも私の心は楽しんだ。それが労苦から私が得た分であった。しかし私は顧みた、この手の業、労苦の結果の一つ一つを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」。
・イスラエルは滅びなければいけない。しかしそれは救いのための滅びだ。一度死に、新しく生きるために今滅びがイスラエルに訪れる。滅んだ後に幸いの福音を彼等は聞くだろう。
-詩篇126:1-6「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった・・・
涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。