1.ついに崩れたヨブ
・ヨブは自分の財産を失い、次々に子を取り去られるという苦しみを受けても、つぶやかなかった。
−ヨブ記1:21「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。
・彼自身が忌まわしい病気を与えられ、妻から見放されても、ヨブは崩れなかった。
−ヨブ記2:10「私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」。
・しかし三人の友がヨブの災いを聞いて、慰めるために、遠方より来た時、彼は生まれた日を呪い始める。三人の沈黙の中に「暗黙の批判」(神は正しい者を罰せられない。災いを受けるのは罪を犯した故だ)を聞き、今まで隠されていた彼の神に対する不満が爆発し始める。人は「泣く人と共に泣き」ながら、なおも人を責める存在なのだろうか。
−ヨブ記2:11-3:2「ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った」。
・ヨブは自分の生まれた日を呪う「生まれた日がなくなれば良い」と。その背景には理由もなく自分を苦しめる創造の神への呪いがある。神の創造を彼は呪う。
−ヨブ記3:3-10「私の生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ・・・光もこれを輝かすな。暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。密雲がその上に立ちこめ、昼の暗い影に脅かされよ。闇がその夜をとらえ、その夜は年の日々に加えられず、月の一日に数えられることのないように。その夜は、はらむことなく、喜びの声もあがるな・・・その日には、夕べの星も光を失い、待ち望んでも光は射さず、曙のまばたきを見ることもないように。その日が、私をみごもるべき腹の戸を閉ざさず、この目から労苦を隠してくれなかったから」。
2.死を願うヨブ
・次にヨブは自分が死産であれば良かった、あるいは流産になれば良かったのにと嘆く。黄泉の世界は今よりましだと。
−ヨブ記3:11-16「なぜ、私は母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝があって私を抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに・・・なぜ私は、葬り去られた流産の子、光を見ない子とならなかったのか」。
・ヨブはさらに「何故死なせてくださらないのか」と神に恨み言を言う。「何故人生は苦しみながら生きなければいけないのか。この苦しみにどのような意味があるのか」、彼は神に問いかける。
−ヨブ記3:20-23「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって、死を探し求めているのに。墓を見いだすことさえできれば、喜び躍り、歓喜するだろうに。行くべき道が隠されている者の前を、神はなお柵でふさがれる」。
・彼は「これからは嘆きをパンに、涙を水にして生きて行く人生しかない」と神に訴える。
−ヨブ記3:24-26「日毎のパンのように嘆きが私に巡ってくる。湧き出る水のように私の呻きはとどまらない。恐れていたことが起こった、危惧していたことが襲いかかった。静けさも安らぎも失い、憩うこともできず、私はわななく」。
・ここには「神から見捨てられた」者の悲しみがある。神の見捨て、神の怒りは、信仰者にとっての最大の問題である。詩篇22編の詩人は神の見捨てを嘆き、イエスはその詩篇を叫びながら、神の見捨ての中で、死んでいかれた。
−詩篇22:2-3「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。
−マルコ15:33-34「昼の十二時になると全地は暗くなりそれが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。
・D.ボンヘッファーは言う『神という作業仮設なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前に、神と共に、われわれは神なしに生きる』(『獄中書簡集』417頁)。神の子であるイエスが、神に見捨てられたと感じるほどの恥と苦しみと絶望を経験した。イエスは「神なしに」生きていた。神の前に、神と共に生きたイエスが、神の不在を感じて苦しまねばならなかった。
・ヨブは早くこの苦しみから逃れたい、死を与えてほしいと叫んだが、自ら命を断つことはしなかった。ユダヤ人はどのような状況でも自殺しない。彼らは神から見捨てられたと思う時があっても、神がいないと思うことはなく、絶望の中でも神を否定しない。それに対して宗教基盤の崩れた社会は自殺しやすい傾向がある。日本人の自殺率は24.4人/10万人でアメリカ(10.7人)の2倍、イギリス(6.9人)の4倍の高い率を示す。他に自殺率が高いのは韓国(31.0人)、ロシア(30.1人)等で、神がいないと思う(無神論)傾向が高いと自殺率が高くなる。
*ヨブ記3章参考資料 「失業率と自殺率」2009年10月27日篠崎キリスト教会コラムより
・2009年10月27日朝日新聞夕刊に、坪野吉孝・東北大学教授の「失業率と自殺率」というコラム記事がありました。日本では、失業率が増加すると自殺率も増加しますが、海外でも同じ傾向があります。失業してこれからどうしてよいかわからない、自分はこの社会では不要な人間だ、その絶望が人を自殺に追いやります。イギリスのランセット誌に掲載された論文では、EU26カ国の動向分析をしていますが、EU全体の平均を見ると、失業率が増えると自殺率も増加し、またアルコール乱用死も増加していました。
・しかし、フィンランドとスウェーデンは違いました。フィンランドでは、1990年から1993年にかけて失業率が増加(3.2%から16.6%に急増)したのに、自殺率はむしろ減少しました。スウェーデンも、1991年から1992年にかけて失業率が増加(2.1%から5.7%)した時に、自殺率は減少しました。坪野先生は最後に言われます「失業しても自殺につながるような大きな不安なしに暮らせる社会が実際にある。この事実は、失業と自殺が連動する社会に暮らす私たちにとって、大きな希望と教訓を与える者ではないだろうか」。
・北欧は高福祉・高負担であり、私たちの社会とはなじめないと思う人もいますが、聖書的に見ると「分かち合い」を制度化したものが高福祉・高負担のシステムではないかと思います。ある新聞のコラムに次のような記事がありました「経済のグローバル化が進む世界で、高福祉・高負担の北欧式は生き詰まるのではないかと言われた。だが実際には、産業構造や労働市場を巧みに調整しながら経済成長を続けている。日本人は北欧について“高負担の国々が、どうやって経済成長できるのか”という点に関心を抱くが、彼らは経済成長よりも、尊厳をもって生きられる社会をどうやって築くかを重く考えている。スェーデンでは、社会サービスを“オムソーリー”(悲しみを分かち合う)と呼ぶ。他者に優しくし、必要とされる存在になることが生きることだと考える。その概念によって社会が支えられている。高い税金に不満が少ないのも、分かち合いの発想から来ている。いつかは自分も子供を持ち、高齢者、或いは失業者になる。充実した介護や育児サービス、教育や職業訓練があれば安心できる」(2008年5月朝日新聞コラムから)。
・隣人愛、分かち合いが社会化されるとき、そこに神の国が生まれていくのです。福音が教会内で語られ、教会内でしか働かない時、それは福音の死蔵化です。福音を聞くだけではなく行っていく時に、神の祝福がそこに与えられると感じます。