江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年2月15日祈祷会(詩篇129編、彼らはわたしを苦しみ続けたが)

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1.苦難の歴史の回顧

・詩篇129編は都詣での歌の第10歌である。おそらくはバビロン捕囚から帰還した民が神殿に来て歌ったものであろう。敵(バビロン)は国を滅ぼすことはできたが、私たちの民族を滅ぼすことは出来なかったと感謝する。
−詩篇129:1-2「都に上る歌。イスラエルは言うがよい。『私が若いときから彼らは私を苦しめ続けたが、私が若いときから彼らは私を苦しめ続けたが、彼らは私を圧倒できなかった』」。
・イスラエルの歴史は苦難の歴史だった。古くはエジプトで奴隷の苦しみを受け、最近はバビロンで捕囚の辱めを受け、今また祖国はペルシャ帝国の支配下にある。詩人はバビロンでのつらい体験(鞭で叩かれ、背中にはみみず腫れの畝ができた)と語る。
−詩篇129:3「耕す者は私の背を耕し、畝を長く作った」。
・しかし私たちはエルサレムに戻ってきた。主が私たちを解放して下さったからだ。
−詩篇129:4「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる」。
・バビロン帝国は前587年にイスラエルを制圧し、住民を自国に連行し、強制労働に当たらせた。しかし前539年にバビロンはペルシャ王クロスに滅ぼされ、イスラエル人は自国への帰還が許された。捕囚地の預言者イザヤはそれを解放の喜びとして歌った。
−イザヤ40:1-2「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」。
・しかしバビロンからの解放は新しい苦難の始まりだった。新しい支配者ペルシャはイスラエルを植民地として支配した。人々は主に「この異邦人たちを神の地から追い出して下さい」と祈り始める。感謝で歌い始められた詩篇が呪いで終わっている。
−詩篇129:5-8「シオンを憎む者よ、皆恥を受けて退け。抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ。刈り入れても手を満たすことはないように。穂を束ねてもふところを満たすことはないように。傍らを通る者が『主はあなたがたを祝福される。私たちも主の御名によってあなたがたを祝福する』と言わないように」。

2.呪いから感謝へ

・イスラエルの歴史は苦難の連続であった。しかしその苦難が彼らの信仰を育んできた。祖国の滅亡、バビロン捕囚という苦しみを通して、彼らは自分たちの罪を知り、その罪の歴史を創世記以下の聖書として記録していく。
−2011年5月1日創世記1章説教?「創世記1章は天地創造の記事であり、その1-3節は創造前の世界がどのようであったかを記しています「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。神が天地を創造される前には、世界は闇の中にあって、混沌としていた。そこに「光あれ」という神の言葉が響くと光が生まれ、混沌(カオス)が秩序あるもの(コスモス)に変わっていったと創世記の著者は語ります」。
−2011年5月1日創世記1章説教?「「混沌」と言うヘブル語「トーフー・ワ・ボーフー」という言葉は聖書に三箇所出てきます。創世記1:2以外では、イザヤ34:11とエレミヤ4:23です。創世記1章は紀元前6世紀に書かれた祭司資料からなるといわれています。イスラエルはバビロン王によって征服され,エルサレムは壊滅し、主要な民は、捕虜として敵地バビロンに連れて行かれました。この捕囚地での新年祭にバビロンの創造神話が演じられ、イスラエル人は屈辱の中でそれを見ました。何故神は、選ばれた民である私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロンに流されたのか。捕囚期の預言者エレミヤは歌いました「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」(エレミヤ4:23)。この「混沌」が「トーフー・ワ・ボーフー」です。「自分たちは神に捨てられた」、絶望の闇がイスラエル民族を覆っていた。しかし、神が光あれといわれると光が生じ、闇が裂かれた。ここにイスラエル人の信仰告白があります。「主よ、あなたは私たちに再び光を見せて下さるのですか」。そのような祈りが創世記1章の言葉の中に込められています」。
・そのイスラエルの苦難の中からイエス・キリストは出てこられた。そして新しい教えを説かれた。それは苦難の中で書かれた旧約聖書を基礎とし、それを完成させる教えだった。イエスの愛敵の教えと詩篇129編を比べた時、私たちはイエスの教えの卓越性を知る。それは「呪いから感謝へ」の教えである。
−マタイ5:43-48「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか・・・自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか・・・あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。

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