1.苦難からの救済
・詩篇124編は民族の危機に主の手によって敵の手から助けだされた民の感謝の歌である。詩人は敵の手からの救いを火災からの救済、大水からの救いになぞらえている。状況としては、バビロンにおける強制労働から解放されて帰還したばかりの巡礼者の一群を思い描けば良い。あの過酷な状況から主は救って下さったと詩人は感謝する。彼らは過酷な状況に置かれたことに対して主を非難するのではなく、救われたことを喜んでいる。
−詩篇124:1-3「都に上る歌。ダビデの詩。イスラエルよ、言え。『主が私たちの味方でなかったなら、主が私たちの味方でなかったなら、私たちに逆らう者が立ったとき、そのとき、私たちは生きながら、敵意の炎に呑み込まれていたであろう』。
・詩人はこの時捕囚地の預言者第二イザヤの歌を想起している。彼は「たとい水の中を潜ろうと、火の中を歩こうとも私はそこにいる」との主の臨在を歌った。
−イザヤ43:1-2「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」。
・NHKドキュメンタリー「開拓者たち」は宮城県出身の千振満蒙開拓団の物語だ。豊かな地を目指して満州に渡った彼らは、日本の敗戦、ソ連軍の侵入、現地民からの銃撃の中で、命からがら逃れ、帰国し、栃木県那須で新しい開拓を始める。敗戦時、ソ連軍の砲火や現地民からの襲撃、飢餓の中で、多くの人々が死んでいった。30万人の開拓移民の内、生きて帰国できたのは10万人だった。助かった人々はひたすら逃げた人々であり、武器を持って開拓村を守ろうとした人々の多くは殺されるか、集団自決に追い込まれた。自分や人の力に信頼した者たちは死に、生かされていると必死に逃げた人々は生き残った。彼らもバビロンからの帰還民と同じ体験をしたのだ。
−詩篇124:4-5「(主が私たちの味方でなかったなら)、そのとき、大水が私たちを押し流し、激流が私たちを越えて行ったであろう。そのとき、私たちを越えて行ったであろう、驕り高ぶる大水が」。
2.主は私たちの味方である
・「主が私たちの味方でなかったなら、私たちはここにいなかった」、生き残った開拓民の人々は「主なる神」を知らなかったが、人間を超える存在を信じた。そのことによって彼らは死から免れた。集団自決の忌まわしい歴史は現在も継続している。年間3万人を超える人々の自殺は、社会に、自己に絶望した人々の集団自決だ。全ての幸いも災いも天地を造られた主から来て、その主は共におられることを私たちは伝える責務を持つ(詩篇124編参考資料参照)。
−哀歌3:31-33「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない」。
・「主は私たちの味方である」、そのことを確信した時に、主への賛美の歌が歌われる。
−詩篇124:6-7「主をたたえよ。主は私たちを敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように、私たちの魂は逃れ出た。網は破られ、私たちは逃れ出た」。
・ここに奇跡がある。私たちは奇跡をミラクル(不思議な出来事)と理解するが実はそうではない。聖書の奇跡とはワンダー(驚嘆すべき出来事)なのだ。
−2012年1月8日説教から:「聖書で『奇跡』と訳されるギリシャ語には三つありますが、最も多く用いられるのが『デュナミス』という言葉です。英語のダイナミックの語源です。聖書の奇跡とはmiracle(不思議な出来事)ではなく、wonder(驚嘆すべき出来事)なのです。不思議な出来事が起きて驚くのではなく、神が起こして下さった御業の驚異を賛美するのが奇跡です。Miracleに相当するセメイオン(しるし)やテラス(超常現象)は多くの場合、人を欺き惑わすもの、警戒すべきものとして否定的に使われます(ヨハネ4:48「あなたがたは、しるし(セメイオン)と奇跡(テラス)とを見ない限り、決して信じないだろう」)」。
・全ての災いも幸いも主から来る。その主は天地を創造し、保持される方だ。この摂理の信仰を持つ限り、人は絶望することはない。出口の見えない苦難でも待つことが出来る。やがて時の経過と共に光が見えてくる。
−詩篇124:8「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」。
・都詣での歌121編も同じ主題を歌う。「私たちの助けは天地を造られた主から来る」と。
−詩篇121:1-2「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから」。
詩篇124編参考資料:柏木哲夫の祈り 懲らしめとあわれみ
「主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」(哀歌3章31〜33節)
・不況が続き、景気が落ち込んでいます。突然のリストラも、もうめずらしいことではなくなりました。リストラというと聞こえはいいですが、はっきり言えば首切りです。そのようななかで増加しているのが、自殺をする中高年の男性の数です。はたから見れば「職を失ったくらいで自殺までしなくてもいいではないか」と思うでしょうが、その人の生活状況を考えると、やはり死を選ぶ以外に道がないほど行き詰まっておられたのだろうと思います。
・自殺の成立には三つの要素があると言われています。この三つの条件がそろったときに人は自らの命を絶つと考えられるのです。第一に、その人が自分は絶望的な、もう自分の手に負えない、どうにもならない状況にいると感じていること。第二に、その状況が一時的なもので、しばらく我慢をしていれば状況が好転するというものではなくて、この先ずっと続くのではないかと思いこんでいること。だからその状況から逃れるためには自分を消す以外に道がないと思ってしまっていること。第三に、自分を消す以外に道がないと思っているその思いに歯止めがかからないということ。いくら「死んでしまったほうがましだ」と思っても、その気持ちに歯止めがかかれば死を選ぶことはないのです。
・歯止めには内的な歯止めと外的な歯止めがあると言われています。内的な歯止めというのは、その人がもっている信条や信仰、また基本的な人生観や価値観です。たとえば、神様から与えられた命を自分の意志で絶ってはいけないという強い信仰をもっていれば、いくら辛い状況にあっても内的な歯止めがかかって、自殺にまでいかないわけです。外的な歯止めは、たとえば「この子のために何とか生きよう」というように、今自分が死んだら子どもはどんなに悲しむだろうかと気づき、自殺を思いとどまらせるものです。
・ですから、自殺をした人たちは、内的にも外的にも歯止めがきかなくなって、辛い状況に耐えることができなくなり、自ら消える以外に道がないと思ってしまわれたのではないかと考えられます。中高年者の自殺が多いという記事を読んで、私は何とか歯止めがかからないものだろうかと思いました。唯一歯止めをかけるものが信仰だというつもりはないですけれども、聖書には、内的な歯止めになるすばらしい御言葉がたくさんあります。
・冒頭の御言葉も、私が非常に好きな御言葉ですが、そのひとつです。ここには神様の私たちに対する懲らしめとあわれみが、短い文章のなかにみごとに凝縮されていると思います。私たちは人生において神様から懲らしめを受ける、言い換えると試練が与えられます。しかし神様は永遠に試練を与え続けたり、また耐えられないような試練を与えるということは決してなさらないというのです。
・「主は、いつまでも見放してはおられない」とあります。「神様から見捨てられた」という気持ちをもつことも長い人生にはあると思いますが、決していつまでも捨てておかれることはないのです。次に「たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる」とあります。親が子をしつけるのと同じです。きつく叱ることもありますが、それは愛情に裏打ちされたものです。また、叱ったあとで抱きしめたりすることによって、親の愛情を示すこともあります。それから「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」とあります。神様のもこころは決して苦しめ悩ますこと自体にはありません。忍耐をもって耐えていれば必ずそこから救い出してくださる、逃れる道を備えてくださるということがはっきりとここに書かれています。
・程度の差はあっても、私たちは長い人生の途上で耐えられないような悲しみ、苦しみを味わうことがあります。そのときに、これは一時的なものであって、祈りつつ耐え忍んでいれば必ず逃れの道が与えられるという確信をもつことができれば、大きな心の平安につながるのではないでしょうか。(柏木哲夫著「心をいやす55のメッセージ」いのちのことば社)