1.主を畏れる人の幸い
・詩編112編は111編の続編で、前編が神の不思議な業を歌ったように、後編では神を畏れる人の幸いを歌う。主を畏れる人には主の祝福が豊かに満ちると詩人は歌う。
−詩編112:1-3「ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は。彼の子孫はこの地で勇士となり、祝福されたまっすぐな人々の世代となる。彼の家には多くの富があり、彼の善い業は永遠に堪える」。
・詩人は続ける「神を畏れる者は物惜しみをせず貸し与え、その結果多くの人々の感謝を受ける」と。
−詩編112:4-6「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る、憐れみに富み、情け深く、正しい光が。憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される」。
・更に詩人は言う「神を畏れるならば、悪い知らせを恐れることもない。今度は何が起こるのかと不安がる必要もない。神は私たちを見放すことはなさらないし、神が私たちの味方であるならば、誰も私たちに敵対できないからだ」と。
−詩編112:7-9「彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。彼の心は堅固で恐れることなく、ついに彼は敵を支配する。貧しい人々にはふるまい与え、その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く」。
・神に逆らう人は正しい人に祝福が満ちるのを見て憤るが、悪人の願いが満たされることはない。神が許したまわないからだ、と詩人は神を賛美する。
−詩編112:10「神に逆らう者はそれを見て憤り、歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる」。
2.この世の現実は単純な讃美を妨げる
・この詩篇を注解した福井誠牧師は言う「恐れるべきものを恐れれば、取るに足らないものを恐れることもない。本当に恐れるべきものがわかれば、他の恐れは、恐れるようなものではない。私たちが、天地の支配者であり、私たちの命をも、あらゆるものを握っておられる神を唯一恐れるならば、不要な恐れを抱くこともない。しかし、その神を恐れないからこそ、人を恐れ、災いを恐れというようなことになる。神を恐れるところに、あらゆる恐れを克服する秘訣がある」と。たしかにそうだと思う。しかしヨブも神を畏れて暮らしていたのに、不条理な苦難を受けた。詩人の歌うように単純に割り切れるのだろうかという疑問が湧く。ヨブは神に訴える。
−ヨブ記9:22-24「だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか」。
・詩編の中にも、納得できない苦しみ、神の沈黙を訴える多くの詩編がある。詩編77編もその一つだ。77編は112編よりも説得力を持って私たちに迫る。
-詩編77:8-11「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ、怒って、同情を閉ざされたのであろうか。私は言います『いと高き神の右の御手は変わり、私は弱くされてしまった』」。
・イエスが私たちに与えられた山上の祝福もそうだ。そこでは「本当の祝福とは人が求める幸福とは言い切れない」ことが言われているのではないか。本当の祝福とは「神に出会う」ことであり、それは往々にして苦難や挫折を通してであることが示唆されている。
−ルカ6:20-25「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる・・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」。
・クリスチャン精神科医・赤星進氏は多くの心の病を持つクリスチャンを診察し、その分析から、信仰には「自我の業としての信仰」と「神の業としての信仰」の二つがあると考えるようになったという(「心の病気と福音」)。自我の業としての信仰とは、自分のために神をあがめていく信仰であり、熱心に聖書を読む、教会の礼拝に参加する、人に非難されるようなことはしていない、だから救って下さいという信仰、救われるために信じる信仰だ。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失う。要求が受け入れられない時には崩れていくからだ。もう一つの信仰のあり方、神の業としての信仰とは、赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼から来る。生まれたばかりの赤子が一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていく生き方だ。この 「自我の業としての信仰」から「神の業としての信仰」へ成長した時、信仰の崩れは生じない。何故ならば全てのことが、良きことも悪いことも、御心として受け入れられるからだ。詩編112編の詩人の信仰はどちらに属しているのだろうか。
詩編112編参考資料:人には耐えられないような試練は与えられないのだろうか。
2011年東京バプテスト神学校夏期講座レポート(K・S姉)から
・山形謙二先生が講師を務めてくださった夏期講座では、苦難の意味についてキリスト教の視点から考える機会を与えられた。このテーマに関しては、長年疑問に思っていた事柄がある。それは「人間として耐えられない試練に遭わせることを神様は本当になさらないのか」ということである。具体的には新約聖書の次の箇所に関わる疑問である。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(第?コリント10:13)。
・このような疑問にとらわれるようになったのは、「主よ、いつまでですか」とのタイトルが付された『無実の死刑囚・袴田巌獄中書簡』(新教出版社、1992 年)を読んだことがきっかけであった。元プロボクサーの袴田巌氏は、1966年に静岡県清水市で起きた一家4人殺人放火事件に対し、身に覚えのない罪で死刑を宣告され、40年以上も拘置所に閉じ込められたまま無実を訴え続けている。彼は1984年にカトリックの洗礼を受けた熱心なキリスト者であるが、近年では拘禁反応で精神を病み、健康状態が危ぶまれているという。このような袴田氏に対して、神様はどのようなご計画を持っておられるのだろうか。それが耐えられない試練であったからこそ、彼の精神は病んでしまったのではないか。あるいは精神を病むこと自体が、「逃れる道」として神から備えられた、と考えた方が良いのだろうか。神様のご計画を欠けの多い我々が知ること自体、難しいことであるから、ここで思いを巡らせることも、所詮は拙い思いに過ぎないのかもしれないが。
・しかしながら苦難に耐えることができない人々がいたとしても、それをもって彼らの信仰が薄かったと判断することはできないだろう。そもそも人間は欠けの多い存在であり、だからこそ我々に信仰が必要となるのだから。そしてキリスト者においても、袴田氏が直面してきたような苦難に見舞われることを考えると、欠けの多い私自身が極めて厳しい試練に見舞われたときに、それらに耐えられるだけの信仰を持つことができるのか、不安に思えてくるのである。先に述べたような疑問点に対する回答や不安を解消する手立てについては、講座を受講しても十分に得られないままであった。しかしながら、このような問いは、信仰とは何か、あるいは神の存在とは何か、に関わる本質的な問いであると言って良いように思われる。したがって、講義等を聴いて何等かの回答が安易に示されることを期待すること自体に、むしろ問題があるのかもしれない。むしろこのような問いに対しては、信仰生活を通じて悩み、迷いながら、長い年月をかけて徐々に自分なりの答えを、神様の導きに従って探りあてていくことが重要なのではないか、と考えている。
・私自身も病をかかえていることから、ホスピスの入院患者の方々が、最期の時までの限られた時間を、どのような思いで過ごしておられるのか、常々気にかかっていた。先に述べたように、自分自身がその時を迎えて、そのような「苦難」とまともに向き合えるのか、自信が持てないからである。しかしながら、さほどの「苦難」ではないにしろ、私なりに「苦難」であると感じた出来事については、少なくともこれまでのところは、神様に守られていることを感じながら乗り越えてきた。私の病が悪化した時と、両親の病が悪化して私が介護しなければならない時とが重なることはなかったし、私や両親の病すらも、あとになって思えば、「ああ、このためにあの時病気になったのか」とさえ、感じられることが少なくなかった。このように日々が綱渡りのような状態にあると、祈らざるをえない、神様により頼まざるを得ないというのが正直なところである。
・今回の講座から、現段階での手がかりが得られたことも事実である。それは、袴田氏のような人々も「神様から選ばれた器」であるといった考え方である。このような考え方は、筋ジストロフィーで亡くなられた石川正一さんの父親の言葉がヒントになっている。講座では、正一さんが手記を出したことに対して「神様から選ばれて、筋ジスという宿命を与えられたキリスト者としての広い証の場を取得した」との彼の父親の言葉が紹介されていた。袴田氏も、冤罪の恐ろしさや冤罪が起こりうる状況の中での死刑制度の恐ろしさについて、キリスト教の立場から広く世の中に啓発するための器として、神様から選ばれたのかもしれない。「苦難が与えられたのは、その人が神様から選ばれた器であるから」。このように考えることで、私が長年抱いていた問いに対する答えを、導き出すことが出きるのではないかと考えている。