1.敵からの呪いの中で傷つく詩人
・詩編109編の詩人は高い地位にあり(8節)、誠実にその職務を実行したが(4節)、世の嫉妬と誹謗の対象とされ(2-3節)、その呪いで心身ともに弱っている。彼は神にその苦しみを訴える。
-詩編109:1-5「私の賛美する神よ、どうか、黙していないでください。神に逆らう者の口が、欺いて語る口が、私に向かって開き、偽りを言う舌が私に語りかけます。憎しみの言葉は私を取り囲み、理由もなく戦いを挑んで来ます。愛しても敵意を返し、私が祈りをささげても、その善意に対して悪意を返します。愛しても、憎みます」。
・詩人の願いは神が彼らを裁いて下さることである。正しい裁きを主に求めることは当然であり、呪いとは異なる。
-詩編109:6-7「彼に対して逆らう者を置き、彼の右には敵対者を立たせてください。裁かれて、神に逆らう者とされますように。祈っても、罪に定められますように」。
・8節以下は敵の呪いの引用である。旧約時代、神の祝福とは「長命であり、子どもに恵まれ、財産が増やされ、家族が安泰である」ことであった。数千年を経た今日でも同じであり、呪いとはその祝福が取り去られ、相手が不幸になることを願うことだ。詩人の敵は詩人が呪われるように、詩人が徹底的に貶められるように、神の前に祈っている。
-詩編109:8-15「彼の生涯は短くされ、地位は他人に取り上げられ、子らは孤児となり、妻は寡婦となるがよい。 子らは放浪して物乞いをするがよい。廃虚となったその家を離れ、助けを求め歩くがよい。彼のものは一切、債権者に奪われ、働きの実りは他国人に略奪されるように。慈しみを示し続ける者もいなくなり、孤児となった彼の子らを憐れむ者もなくなるように。子孫は断たれ、次の代には彼らの名も消されるように。主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。母の罪も消されることのないように。その悪と罪は常に主の御前にとどめられ、その名は地上から断たれるように」。
・敵の呪いは続く。詩人はその職務に関して何かの過ちを犯し、そのために民が亡くなる等の過失があったのかも知れない。敵は繰り返し、詩人の過失を攻撃する。
-詩編109:16-20「彼は慈しみの業を行うことに心を留めず、貧しく乏しい人々、心の挫けた人々を死に追いやった。彼は呪うことを好んだのだから、呪いは彼自身に返るように。祝福することを望まなかったのだから、祝福は彼を遠ざかるように。呪いを衣として身にまとうがよい。呪いが水のように彼のはらわたに、油のように彼の骨に染み通るように。呪いが彼のまとう衣となり、常に締める帯となるように。私に敵意を抱く者に対して、私の魂をさいなもうと語る者に対して、主はこのように報いられる」。
2.呪いからの救済を求めて
・そのような呪いに詩人は傷つき、弱められている。あるいは悩みのために病気になっているのかもしれない。
-詩編109:21-24「主よ、私の神よ、御名のために、私に計らい、恵み深く、慈しみによって、私を助けてください。私は貧しく乏しいのです。胸の奥で心は貫かれています。移ろい行く影のように私は去ります。いなごのように払い落とされます。断食して膝は弱くなり、からだは脂肪を失い、衰えて行きます」。
・敵は詩人を神の敵であるかのように攻撃する。しかし詩人は「人は呪っても神は祝福して下さる」ことを信じる故に、主を賛美することが出来る。
-詩編109:25-28「私は人間の恥。彼らは私を見て頭を振ります。私の神、主よ、私を助けてください。慈しみによってお救いください。それが御手によることを、御計らいであることを、主よ、人々は知るでしょう。彼らは呪いますが、あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますが、あなたの僕は喜び祝います」。
・自分のやってきたことが周りの人に理解されない、全ては徒労だったのではないかと疑う時、人の心は危機に瀕する。その危機を救うものは「神は知っておられる」という信仰しかない。
-イザヤ49:4-5「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。主の御目に私は重んじられている」。
・詩人は、神は知っておられることを確信する故に、平安を与えられる。
-詩編109:29-31「私に敵意を抱く者は辱めを衣とし、恥を上着としてまとうでしょう。私はこの口をもって、主に尽きぬ感謝をささげ、多くの人の中で主を賛美します。主は乏しい人の右に立ち、死に定める裁きから救ってくださいます」。
・内村鑑三は明治24年不敬事件で、国賊と罵られ、教職を追われ、妻は心労でなくなり、教会は彼を批判した。その苦難の中で彼は「基督信徒の慰め」を書いた。彼は書く「今やこの頼みに頼みし国人に捨てられて、余は帰るに故山なく、求むるに朋友なきに至れり、天の下には身を隠すに家なく、他人に顔を会し得ず、孤独淋しさ言わん方なきに至れり」。幸いにもこの書は評価され、内村は文筆家・伝道者として立っていく。苦難が彼に新しい道が開かせた。
-ヨハネ15:18-19「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。
*詩編109編参考資料:敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい「2008年7月6日説教」から
・今日の招詞にマタイ5:43-45を選びました。次のような言葉です「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」
・多くの人がこのイエスの言葉を説教しました。マルティン・ルーサー・キングも、1963年に「汝の敵を愛せよ」という説教を行いました。当時、キングはアトランタのエベニーザ教会の牧師でしたが、黒人差別撤廃運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていました。そのような中で行われた説教です。キングは言います「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」と彼は聴衆に語りかけます。
・説教の最後で彼は敵対者に語りかけます「我々に苦難を負わせるあなた方の能力に対し、苦難に耐える我々の能力を対抗させよう。あなた方のしたいことを我々にするがいい。そうすれば我々はあなた方を愛し続けるだろう。我々はあなた方の不正な法律には従わない。我々を刑務所に放り込むがいい。それでも我々はあなた方を愛するだろう。我々の家庭に爆弾を投げ、我々の子供らを脅すがいい、それでも我々はあなた方を愛するだろう。覆面をした暴徒どもを真夜中に我々の家庭に送り込み、我々を打って半殺しにするがよい、それでも我々はなおあなた方を愛するだろう。しかし、我々は耐え忍ぶ能力によってあなた方を摩滅させることを覚えておくがいい。何時の日か我々は自由を勝ち取るだろう。しかし、それは我々自身のためだけではない。我々はその過程であなた方の心と良心に強く訴えて、あなた方を勝ち取るだろう。そうすれば我々の勝利は二重の勝利となろう」(信教出版社「汝の敵を愛せよ」から)。
・キングは歴史を導く神の力を信じました。だから自らの手で敵に報復しないで、裁きを神に委ねました。白人は黒人を差別し、投獄し、彼らの家に爆弾を投げ込みました。しかし、キリストは彼らのためにも十字架にかかられたから、白人を憎まない。人間の愛は「隣人を愛し、敵を憎む」愛です。しかし、キングはそれを超える神の愛、アガペーを私たちの人間関係にも適用すべきだと言います。何故ならば、「天の父の子となるためである」。あなたがたは信仰者ではないか、信仰者であれば歴史は神が導かれることを信じていこう。キングの言葉にアメリカは変わりました。キングは1968年に暗殺されて死にましたが、アメリカは20年後の1986年に、キングの誕生日である1月15日を国民の祝日にしました。パウロは言いました「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(?コリント8:1)。「知識(グノーシス)」は人を高ぶらせますが、「愛(アガペー)」は人を造り上げるのです。キリストの十字架と復活に立つ信仰は、私たちをアガペーへの道、兄弟を愛する道に導きます。