1.罪赦された詩人の感謝の歌
・詩編103篇は罪の赦しと神の恵みを体験した詩人の感謝の歌である。詩人は歌う「私の魂よ、主を讃えよ」。主は私を墓から救いだしてくださったと。詩編103編は多くの讃美歌を通して歌われている(新生讃美歌112番、113番他)。
−詩編103:1-5「私の魂よ、主をたたえよ。私の内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ・・・主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」。
・主は私たちの罪を赦し、怒られることがあってもまた顧みてくださる。罪を赦されるのは主の憐れみ(ヘセド)だ。主の憐れみなしには私たちは生きることができないと詩人は出エジプトの贖いを引用して歌う。
−詩編103:6-9「主はすべて虐げられている人のために、恵みの御業と裁きを行われる。主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された。主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない」。
・「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」、出エジプト記34:6−7の引用だ。出エジプトの旅は罪に満ちていた。エジプト軍が迫ると民は「我々を連れ出したのは・・・荒れ野で死なせるためですか」(出エジプト14:11)と嘆き、食べ物がなくなると「我々はエジプトの国で・・・肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」(同16:3)とつぶやく。マナが与えられると「どこを見回してもマナばかりで、何もない」(民数記11:4-6)と文句を言う。このような民を主はエジプトから救いだされ、そればかりか今度はバビロンからも救い出してくださった。103:11はイザヤ55:9からの引用であり、この詩編が捕囚後のものであることを示す。
−詩編103:10-13「主は私たちを罪に応じてあしらわれることなく、私たちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程、私たちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」。
2.土の塵に過ぎない私たちを愛される主
・14節から讃美は、イスラエルを超えて、全人類を創造し、慈しまれる主への讃美に移っていく。土の塵にすぎない人間に、神は「命の息」を吹きこまれ、人は生きる者になった。その人間の命を支え、これを豊かにする働きが、慈しみ(ヘセド)だ。塵に過ぎない私たちにこの神のヘセドが注がれることにより、私たちは生きる存在となった。
−詩編103:14-16「主は私たちをどのように造るべきか知っておられた。私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる」。
・この言葉の背景にはイザヤ40:7-8がある「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」。人の命は野の花のようにはかない。今日生きていた人が明日は死ぬ。権勢を誇り、わが世の春を歌っていた人も、死ねばただの土に戻る。自分が有限であることを知る故に、人は自分を超えた存在、主の前にひざまずく
−詩編103:17-18「主の慈しみは世々とこしえに、主を畏れる人の上にあり、恵みの御業は子らの子らに、主の契約を守る人、命令を心に留めて行う人に及ぶ」。
・やがて讃美は地上だけではなく、天上にも起こる。天地は主が創造され、支配しておられるからだ。
−詩編103:19-22「主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。御使いたちよ、主をたたえよ、主の語られる声を聞き、御言葉を成し遂げるものよ・・・主の万軍よ、主をたたえよ、御もとに仕え、御旨を果たすものよ。主に造られたものはすべて、主をたたえよ、主の統治されるところの、どこにあっても。私の魂よ、主をたたえよ」。
・「天地は全て主が創られ、主が支配しておられる」、これが摂理の信仰だ。この信仰では全ての災いも全ての幸いも主から来ることを認める。創世記22章はイサクの奉献であるが、それが主の「試み」であったと記す。
−創世記22:1-2「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が『はい』と答えると、神は命じられた『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい』」。
・何故25年間も待った約束の子を殺せと命じられるのか、この子が死ねば「あなたの子孫を増やす」という主の約束も否定される。アブラハムにはわからない。しかしアブラハムは従って行く。神は最後にアブラハムがイサクを殺そうとするのを止められ、代わりの羊を与えられる。試みられる主は、試みから逃れる道をも「備えられる」主だ。
−創世記22:13-14「アブラハムは目を凝らして見回した。後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている」。
・私たちは人生の最期に死を迎える。その時、「主備えたもう」と信じきる事ができるか、私たちの最大の試みだ。