1.死の床から救われた詩人の感謝
・詩編116篇は死の病から回復することが出来た詩人の感謝の祈りである。詩人は死の床にあって(3節:死の綱が私に絡みつき、陰府の脅威にさらされて)、必死に回復を祈った(4節:主よ、私の魂=ネフェシュ=命をお救い下さい)。
−詩編116:1-4「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、私に耳を傾けてくださる。生涯、私は主を呼ぼう。死の綱が私にからみつき、陰府の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして、主の御名を私は呼ぶ『どうか主よ、私の魂をお救いください』」。
・主は詩人の祈りを聞かれた。主は報いて下さった。その感謝を詩人は歌う。
−詩編116:5-7「主は憐れみ深く、正義を行われる。私たちの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てた私を救ってくださる。私の魂よ、再び安らうがよい、主はお前に報いてくださる」。
・死は必然であり、時が来れば私たちは死ぬ(陰府=シェオールに下る)。それでも私たちは生きたい、命ある者の地で生きたいと願う。もう死ぬだろう、助からないだろうという絶望の淵でも、詩人は祈り続けた。
−詩編116:8-11「あなたは私の魂を死から、私の目を涙から、私の足を突き落とそうとする者から、助け出してくださった。命あるものの地にある限り、私は主の御前に歩み続けよう。私は信じる『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも」。
・死は人間に対する最大の苦難である。死は必定であるとわかっていても死にたくない、生きたい。人はそう願う。死の病に罹り、あなたは死ぬと宣告されたヒゼキヤ王(当時39歳)の祈りは、全ての人の共通の祈りであろう。
−イザヤ38:10-16「私は思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか、陰府の門に残る齢をゆだねるのか、と。私は思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり、消えゆく者の国に住む者に加えられ、もう人を見ることもない、と・・・あなたは私の息の根を止めようとされる・・・天を仰いで私の目は弱り果てる。わが主よ、私は責めさいなまれています・・・私の霊も絶えず生かしてください。私を健やかにし、私を生かしてください」。
2.私たちの涙をぬぐって下さる神
・主は詩人の願いを聞き、詩人を癒して下さった。詩人はその感謝をどのように表わして良いかわからない。彼は感謝の捧げものを持って神殿に向かう。
−詩編116:12-14「主は私に報いてくださった。私はどのように答えようか。救いの杯を上げて主の御名を呼び、 満願の献げ物を主にささげよう、主の民すべての見守る前で」。
・主は御心に生きる者の死に無関心ではあられない。私たちの苦しみ、悲しみを知り、祈りを聞いて下さる。無意味な死などないと詩人は讃美する。
−詩編116:15-19「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。どうか主よ、私の縄目を解いてください。私はあなたの僕。私はあなたの僕、母もあなたに仕える者。あなたに感謝のいけにえをささげよう、主の御名を呼び、主に満願の献げ物をささげよう、主の民すべての見守る前で。主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ」。
・「死は多くの人に涙を流させるが、主はその涙を知っておられる。そしてその涙をぬぐい、喜びの涙にして下さる」と詩人ネヴィル・スミスは祈った。
−ネヴィル・スミス「病院にいる人々への祈り」から
「父なる神さま、病院の中で流された涙をかえりみてください。小児用ベッドの傍らの苦しみの涙、死にゆく幼な子への両親の涙、飲酒運転をした人への怒りの涙、愛する者を失った家族の涙、死にたくないと思っている人々の恐怖の涙、死にたいほどの苦しみの中で錯乱している人々の涙、悪い知らせがもたらす涙、時間と能力の限界を体験した若い医師の涙、自分の弱点をよく知っている経験を積んだ看護婦の涙。しかし、父なる神さま、病院で流される涙のすべてが悲しみの涙ではありません、新しく生まれた子どもを、畏れと驚きをもって見つめる両親の涙、家族や友人の愛情と親切に支えられたことを改めて知った人々の涙、病をいやされ、喜びの中に歩みはじめる人々の涙、あなたに対する愛と感謝の心で満たされた人々の涙、自分の感動をほかの方法では表すことができない人々の涙。父なる神さま イエスさまが涙を流されたように すべての人々が流す涙を受け入れてください。主イエスの御名によって祈ります」。
・旧約の人々は死後のよみがえり(復活)を知らなかった。彼らにとって死とは「陰府に下る」ことであり、そこは「滅びの穴」、「墓穴の底」、「沈黙の国」、「忘却の地」であり、人は、「塵」と「蛆」にわたされていると考えた。彼らは死を恐れ、死ぬ時には、希望も、神の認識も、不思議なみ業の体験も、神への賛美もなかった。しかし、新約において、私たちはキリストの復活において、私たちも復活するとの希望を持つことが許された。
−ヨハネ黙示録21:1-4「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった・・・そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。
*詩編116篇参考資料:2011年2月27日説教(人はどのようにして死んでいくのか)から
・列王記下20章冒頭は記します。「ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て『主はこう言われる。あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』と言った」(列王記下20:1)。なんと冷たい言葉と思いますが、やはり真実は真実として伝えるのが預言者の役割なのでしょう。しかしヒゼキヤは大きな衝撃を受けます。列王記は記します「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、私がまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください』。こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」(列王記下20:2-3)。
・主はこの祈りに答えてヒゼキヤの寿命を15年伸ばされました。この出来事が起こったのはいつのことでしょうか。ヒゼキヤは紀元前687年に死んでおり、その15年前とすれば、紀元前702年ごろ、ちょうどアッシリアの大軍がシリヤ・パレスチナ地方に侵攻し、ヒゼキヤがその対応に忙殺されていたころです。その心労が重なって病気になったのでしょうか。いずれにせよ症状は重く、もう回復の見込みはないと思われていました。
・ヒゼキヤは「顔を壁に向けて」祈りました。死ぬ時は誰も助けてくれず、人は死に対しては一人で立ち向かわなければいけないのです。また彼は祈った後、「涙を流して多いに泣いた」と列王記は記します。一国の王であり、信仰が厚くとも、人は死を前にすればおののくしかないです。ヒゼキヤはこの時39歳でした。人生の半ばで何故死ななければいけないのか、しかも国家存亡の非常時に、との思いが彼の心の中に沸き起こったことでしょう。並行箇所のイザヤ書ではこの時のヒゼキヤの祈りが記されています「私は思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか、陰府の門に残る齢をゆだねるのか」(イザヤ38:10)。ヒゼキヤは必死に「生かして下さい」と神に訴えたのです。
・主はこのヒゼキヤの祈りを聞かれて、彼の命を15年間延ばされます。ヒゼキヤは死の病から癒されましたが、それは彼自身のためというよりも、「アッシリアの王の手からこの都を救い出す」ためでした。この記事が私たちに示しますことは「人は使命がある限り生かされる。使命を終えずして死ぬことはない」というメッセージです。人は「生かされている間、生きる」というのが聖書の使信です。
・しかし私たちは疑問も持ちます。「3歳の子供が先天性の疾患のために天に召されるのも、その使命を終えた故だろうか」。少なくともそう受け入れるのが信仰ではないかと思います。ダウン症の子を与えられたエドナ・マシミラさんは次のように言います「神から贈られたこの子、柔和でおだやかなこの子という授かりものこそ、天から授かった特別な子供なのです」(ようこそダウン症の赤ちゃん)。人を生かすも殺すも神の御手の中にあり、私たちは「生かして下さい」と祈るしかない。神がもし許して下されば私たちは生かされるでしょうし、そうでなければ命を召される。しかし、その神は私たちを愛し、憐れんで下さる方であることを知るゆえに、神は最善の決定を為されると受け入れて行くのが信仰です。癒されれば感謝し、癒されなければそのことの中に意味を見出していくのが信仰者です。
・今日の招詞にヤコブ4:14-15を選びました。次のような言葉です「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです』」。
・ヒゼキヤは死の病から癒されて、新たに15年の命をいただきました。死の床にあった時、ヒゼキヤは「人の命の年数は神の御手の中にあり、人は許された時間を生きるだけだ」ということを思い知ったことでしょう。まさにヤコブが言うように、「人は自分の命がどうなるか、明日のことは分からない。人は、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎない」のです。私たちは許されて60年、70年、あるいは80年の時間を生きる存在です。しかし同時に「為すべきことをする」十分な時間が与えられています。ヒゼキヤはイザヤの預言から「自分の在世中は平和と安定が続く」ことを聞き、感謝します。ユダの国を守るという使命を果たすだけの時間が与えられたことを感謝したのです。
・人はいつまでも健康で生きることが出来るわけではなく、いつかは死ぬ時が来ます。私たちはある意味で、刑の執行を猶予されている死刑囚なのです。メメント・モリ=死を忘れるなという言葉がありますが、死を忘れない生き方とは、刑の執行が猶予されていることを感謝する生き方です。それは残された時間を誠実に生きる生き方、ヤコブの言う「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」という生き方です。