1.神を無視して生きる愚か者
・詩篇53編は詩篇14編と同じ内容の詩だ(違いは53編では神は“エロヒーム”と呼ばれ、14編では“ヤハウェ”と呼ばれることだけだ)。詩篇の中に同じ詩が重複している理由は、第一部(ダビデ詩集、1〜41編)と第二部(エロヒーム詩集、42〜83編)が当初別個に流布していたためであろう。しかし、この二つの詩が重複して残されたのは、この詩がいかに重要視されたかを示している。「神を求める者はいない、一人もいない」と歌うこの詩は後のパウロの信仰義認論において重い役割を果たした。
−ローマ3:10-12「次のように書いてある通りです『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」。
・イスラエルでは正面切って神なしとする無神論はない。しかし現実には「審き主などいない」として暴虐を尽くす者は多く、実際上の無神論は根強くあった。詩人は神を知らぬ者=ナーバールは愚か者であると批判する。
−詩篇53:2「神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」。
・「善を行う者はいない、一人もいない」とは前述のように、パウロが人間の罪を見つめた契機になった言葉だ。
−詩篇53:3-4「神は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。一人もいない」。
・神などいないとうそぶく者は人を搾取する=パンを食らうかのように私の民を食らう。神を恐れないから自分の欲望のままに彼は生きる。己が力を誇るその高ぶりが弱者に対する暴虐として噴出する。
−詩篇53:5「悪を行う者は知っているはずではないか、パンを食らうかのように私の民を食らい、神を呼び求めることをしない者よ」。
・預言者は「正義と公平を」と叫び続けて来た。エレミヤが求めたのも正義と公平だった。
−エレミヤ5:1「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、一人でもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、私はエルサレムを赦そう」。
2.神は悪を放置されない
・しかし神は悪を放置されない。「神は邪悪な者の骨を撒き散らされる」、断固たる神の審きがあることを詩人は歌う。悪が栄えても一時的であり、どのような絶対権力者も必ず滅んできたではないかと。
−詩篇53:6「それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた」。
・神の義による支配は民族内の正義のみでなく、他民族の暴虐からの救いをももたらす。イスラエルを滅ぼし、民を連れ去ったバビロニアが滅ぼされ、捕囚の民が帰ってきたのを、私たちは見たではないかと詩人は歌う。
−詩篇53:7「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」。
・人は幸福を求めて生きる。だが己の欲望充足が幸福であると錯覚する時、社会は欲望充足の戦場となり、人々の理性はゆがみ、良心は麻痺していく。しかし主なる神はそのような状況を必ず糺される。それがイスラエルの信仰であった。イエスの母マリアの賛歌にもその信仰が浮かび上がる。
−ルカ1:51-55「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、私たちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」。
・人間にとって最大関心は死だ。だが多くの日本人は復活も永遠の命も信ないゆえに、あくまで現世的に生きている。この世でいかに幸せになるのか、いかに出世するか、いかに金持ちになるかがその関心事になる。そして死の事はできるだけ考えまいとする。しかし必ず死ぬ時が来て、命の支配権が自分ではなく、神にあることを知る。それを知った時に人の生き方は変わる。それを伝えるのが私たちの役割だ。
−1コリント1:22-25「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。