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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年12月23日祈祷会(エゼキエル2章、御言葉は蜜のように甘い)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.エゼキエルに与えられた言葉

・前593年、イスラエルがバビロンに捕囚されて5年目、エルサレムはバビロニアの支配下にあったがまだ滅んではいず、パレスチナではエレミヤが立たされて悔い改めを説き、捕囚地ではエゼキエルが召されて言葉を語るように命じられた。-エゼキエル2:1-2「彼は私に言われた『人の子よ、自分の足で立て。私はあなたに命じる』。彼が私に語り始めた時、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。私は語りかける者に耳を傾けた」。
・預言者は与えられた言葉を語る。人が聞き入れようが聞き入れまいが語る。その展望は魅力的なものではない。苦痛や危険が伴うだろう。求められているのは聴衆のニーズでもなく、また効果でもない。神の言葉を正しく語ることである。
-エゼキエル2:3-7「人の子よ、私はあなたを・・・私に逆らった反逆の民に遣わす・・・恥知らずで、強情な人々のもとに、私はあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない・・・彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたは私の言葉を語らなければならない」。
・バビロンの捕囚民は、自分たちはやがて帰国できると楽観視していた。平和でもないのに「平和、平和」と叫ぶ偽預言者の声に踊らされていたからだ。預言者ハナンヤが捕囚の終わりを預言したのはエゼキエルが立たされる前年だった。
-エレミヤ28:1-4「ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者・・・ハナンヤが、祭司とすべての民の前で私に言った『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私はバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、私はバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、私はこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、私がバビロンの王の軛を打ち砕くからである』」。
・それに対して、エゼキエルは、国が占領され自分たちが捕えられたのは、自分たちが神に逆らった故であり、そのことを悔い改めなければ苦しみは去らないと考えていた。彼に与えられた言葉は審判の言葉(哀歌と呻きと嘆き)だった。
-エゼキエル2:8-10「『人の子よ、私があなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、私が与えるものを食べなさい』。私が見ていると、手が私に差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれを私の前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」。

2.御言葉は蜜のように甘い

・戦争中に、「不正義な戦争は止めなければいけない」と語れば、売国奴、非国民として迫害される。人はみなたじろぐ。しかし語らねばならない。矢内原忠雄は、中国侵略を拡大する日本を批判して「国家の理想」(1937年)を中央公論に発表した「国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと国は一時栄えるように見えても滅びる」。矢内原はこの論文が契機になり東大教授の職を追われた。職を追われた彼は、戦争末期の1943年から45年にかけて、自宅の家庭集会でエゼキエル書を連続講義した。彼は何故語ることを止めなかったのか、それは真理を見出した喜びは何物にも代え難く、語ることを止めることはできないからだ。
-エゼキエル3:1-3「彼は私に言われた「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」。私が口を開くと、主はこの巻物を私に食べさせて、言われた『人の子よ、私が与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ』。私がそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」。
・エゼキエルに与えられた言葉は審判の言葉であった。しかしそれは「蜜のように甘かった」。何故ならば神の怒りの背後には神の愛があるからだ。神は滅ぼすためではなく、救うために裁きをされる。エレミヤもそれを知っていた。
-エレミヤ15:16「あなたの御言葉が見いだされたとき、私はそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、私のものとなり、私の心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。私はあなたの御名をもって、呼ばれている者です」。
・エゼキエルが語る相手は、一日も早く帰還することだけを願う捕囚民だ。審判の言葉など聞こうとしない。そのかたくな人々に語るために、預言者は聴衆の拒否を上回る固い信仰が必要だ。それを与えると神は約束される。
-エゼキエル3:7-9「イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らは私に聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。今や私は、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする・・・彼らが反逆の家だからといって、彼らを恐れ、彼らの前にたじろいではならない」。
・説教者が「良い説教をしよう、この説教を通してみんなを動かしたい」と願う時、その言葉は空疎なものになる。前述の矢内原はエゼキエル書2章の講解で言う「自分がひとかどの人間で、何かをやろうという時には、神は私どもをお用いにはなりません・・・神の栄光を見て自分が空しくされた時、神は大きな使命を我々に自覚せしめたもう」。有限な人間(人の子)が神の言葉を食べるとはそういうことだ。

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