1.危難からの救いを求める歌
・詩篇18編は51節と長く、内容的にも前半(1〜31節:救いを求める歌)、後半(32〜51節:王の詩篇)に区分されるので2回に分けて学ぶ。この歌には「主がダビデを敵の手から救い出した時の感謝の歌」との表題がついており、サムエル記下22章に同じ歌が「ダビデの感謝の歌」として記載されていることから、中核にはダビデの経験がある。
-詩篇18:1-4「主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。『主よ、私の力よ、私はあなたを慕う。主は私の岩、砦、逃れ場、私の神、大岩、避けどころ、私の盾、救いの角、砦の塔。ほむべき方、主を私は呼び求め、敵から救われる』。
・ダビデはサウル王に仕えて頭角を現し、軍の将軍になるが、ダビデの人気はサウルを圧倒し(「サウルは千を打ち,ダビデは万を打った」(?サム18:7‐8))、サウルは,ダビデを憎み始める。サウルは宮廷でダビデを殺害しようと図り、また敵軍の手によってダビデを抹殺しようと図ったが失敗した。ダビデは宮廷を逃亡したが、サウルはしつこくダビデを追廻し、ダビデの逃亡生活は10数年間も続いた。その中でダビデは主の助けを求める。
-詩篇18:5-7「死の縄がからみつき、奈落の激流が私をおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている。苦難の中から主を呼び求め、私の神に向かって叫ぶと、その声は神殿に響き、叫びは御前に至り、御耳に届く」。
・マルテイン・ルターは18:7を「前方への逃走」と名づけた。私たちは後方(人間)に期待を持つゆえに裏切られ落胆する。しかし前方(神)は私たちの祈りの声を聴いて下さる。絶望を切り開く力は人間にはないが神にはある。
-イザヤ2:22「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」
・8-16節は祈りに答えて現れた神の顕現を歌う。古代人は神を火や煙で象徴した。
-詩篇18:8-16「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる・・・主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し、あなたの怒りの息に世界はその基を示す」。
・歌い手は「主は危難の時に私を助け、守ってくださった」と感謝する。信仰は救いの体験を通して成長していく。
-詩篇18:17-20「主は高い天から御手を遣わして私をとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、私を憎む者は勝ち誇っているが、なお、主は私を救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日、主は私の支えとなり、私を広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる」。
2.救いにふさわしい者に
・21節以降で歌い手は主にふさわしく生きると決意する。私が正しいから主が救われたのではなく、主がこれほどの恵みを下さったのだから私はそれに応答して生きる。「恵みが先行する」ことを忘れれば律法主義になる。
-詩篇18:21-25「主は私の正しさに報いてくださる。私の手の清さに応じて返してくださる。私は主の道を守り、私の神に背かない。私は主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。私は主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る。主は私の正しさに応じて返してくださる。御目に対して私の手は清い」。
・主の救いを経験した者は主の教えに従って生きるようになる。ダビデは自分を追廻すサウルを殺す機会が何度もあったが、「主が油注がれた者を殺さない」と自重する。
-?サムエル24:3-7「サウルは・・・三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って山羊の岩の付近に向かった。途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。ダビデの兵は言った『主があなたに、私はあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよいと約束されたのは、この時のことです』。ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った『私の主君であり、主が油を注がれた方に、私が手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ』」。
・歴史は神により導かれているのか、それとも偶然性の連続なのか。もし、歴史が偶然性の連続であれば、ダビデはサウルを殺して彼が王になれば良い。それが人間の選んできた歴史だ。しかし、歴史が神に導かれているものであれば、神の許しなしに行う行為は罪となる。ダビデは自らの手でサウルを退けず、神の時を待った。
・ダビデがイスラエルの王になったのはサウルが外国との戦いで戦死した後だった。長きにわたる試練がダビデを謙虚にした。私たちも信仰者として、このダビデに倣って行く。神が与えられたものは、例え苦しく、その意味がわからなくとも受け入れていく。何故なら、神は私たちを愛し、私たちに祝福を与えようとしておられる。その祝福のために現在の試練がある。今はわからなくとも、わかる日が来る。その時、私たちは今与えられている呪いを感謝するようになる。自分で選ばない、神に委ねていく。そのような生き方が信仰者の生き方だ。