江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年7月1日祈祷会(詩篇6編、いやしを求める病者の祈り)

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1.死の床に伏す者の祈り

・詩篇6編は「悔い改めの祈り」の一つだ。祈り手はこの病が自分の罪のために、主が与えたもうものだと理解し、憐れみと癒しを求める。
−詩篇6:2-4「主よ、怒って私を責めないでください。憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください。私は嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、私の骨は恐れ、私の魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」。
・祈り手は死に直面している。死は人間にとって永遠の眠りだが、旧約の人々にとって、それは「神なきままの永遠の眠り」であり、死ぬことは陰府に捨てられることを意味した。その恐怖の中で生への帰還を祈り手は求める。
−詩篇6:5-7「主よ、立ち帰り、私の魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、私を救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入ればだれもあなたに感謝をささげません。私は嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです」。
・重病を患い、死に直面した時、人は自分の限界を知り、罪を悔い改め、神を求める。生死を支配される神は憐れみ(ヘセド)を知る方であり、苦悩を訴える民の声に耳を傾けてくださるとの信仰ゆえに、必死に求める。
−詩篇103:3-13「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。・・・ 父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」。
・8節から祈り手を苦しめる敵が出てくる。この敵とは誰か。不治の病は神の呪いと考えられ、社会的に排斥された。祈り手は病にかかった故に、「神に呪われている」と嘲笑されたのである。自分を嘲笑する者の不正を糾してくださいと祈り手は求める。病は神から来るが、それは呪いではなく、回心を求めるためのメッセージだ。
-詩篇6:8-11「苦悩に私の目は衰えて行き、私を苦しめる者のゆえに老いてしまいました。悪を行う者よ、皆私を離れよ。主は私の泣く声を聞き、主は私の嘆きを聞き、主は私の祈りを受け入れてくださる。敵は皆、恥に落とされて恐れおののき、たちまち退いて、恥に落とされる」。
・病により人は社会から断絶される。社会的に活躍した人でも、病になれば誰も訪ねて来ない。病気による社会や家族との断絶の苦しみは病苦以上に大きい。
-詩篇38:11-12「心は動転し、力は私を見捨て、目の光もまた、去りました。疫病にかかった私を、愛する者も友も避けて立ち、私に近い者も、遠く離れて立ちます」

2.病の呪術からの解放をイエスは為された

・病苦は人類永遠の課題である。古代において病気は悪霊や悪鬼のせいと考えられ、その治療は呪術や神々への祈願によって為された。聖書にもその影響が残り、サウルが陥った病気(おそらくはうつ病)は主が送られた悪霊によるとサムエル記は理解している。
-?サムエル16:14-16「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた『あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。・・・竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう』」。
・このような考え方は新約時代にもあり、病気は悪霊によるものとの観念が根強くあった。
-マルコ1:32-34「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」。
・マルコ5章「長血を患う女性の癒し」で、マルコは女性の病気を「マスティクス(鞭)」と表現する。業病、神によって与えられた病との意味を強調するためだ。イエスの癒しは単なる病だけでなく呪いからの解放を意味した。
-マルコ5:34「イエスは言われた『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」。
・病が神から来たものと考える時、人は病者を「神に呪われた者、汚れた者」として排除する。病者は病気に加えて、この社会的制裁に苦しんだ。イエスは「病者の社会からの排除を神は望んではおられない」として戦われた。
-ヨハネ9:1-3「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。

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