江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年2月12日祈祷会(イザヤ29章15−24節、イザヤの終末預言)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.イザヤの言葉を聞かない人々

・イザヤ29章はヒゼキヤ王時代のイザヤ預言だ。前705年、イスラエルはアッシリア王の死を契機にアッシリアに反乱を起こす。イザヤはアッシリアを「イスラエルを撃つ神の鞭」と啓示され、従うように求めるが、人々は密かにエジプトと軍事同盟を結ぶ。イザヤはその同盟を「死との契約」と呼び(28:15)、「闇の行為」と批判する。
-イザヤ29:15「災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う『誰が我らを見るものか、誰が我らに気づくものか』と」。
・何故御心に逆らうのか。それは陶器が自分の造り主を批判する行為と同じではないかとイザヤは言う。
-イザヤ29:15「お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか『彼が私を造ったのではない』と。陶器が、陶工に言いうるのか『彼には分別がない』と」。
・非武装中立と言う日本憲法は人間の視点から見れば愚かだ。憲法前文は歌う「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。しかしイザヤはこの憲法こそ御心に適うと預言している。
-イザヤ2:4-5「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。
・しかし日本は非武装中立の憲法を持ちながら他方でアメリカとの軍事同盟に頼る。イスラエルがエジプトに頼ったのと同じだ。イザヤは主に頼らずエジプトに頼る愚かさを繰り返す。日本にも同じ批判が与えられるだろう。
-イザヤ30:1-2「災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが、私によるのではない。盟約の杯を交わすが、私の霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。彼らは私の託宣を求めず、エジプトへ下って行き、ファラオの砦に難を避け、エジプトの陰に身を寄せる」。
・人は歴史の中に神の手を見ることができない故に、自分の知恵と力に頼る。世にある不条理を見て、神はいないとせせら笑う。パウロはその愚かさを、イザヤを引用して批判する。
-ローマ9:20-21「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」。

2.絶望の中で将来に期待を置く

・イザヤの言葉に誰も耳を傾けない故に、イザヤは言葉を封印する(29:11-12)。しかしその封印が解かれる時が来る、人が歴史の中に神の手を見る時が来るとイザヤは預言する。私たちの父祖も「八紘一宇」、「五族協和」という言葉に踊らされて戦争の道を歩んだが、1945年の敗戦により、私たちの目は開き、耳は聞こえるようになった。
-イザヤ29:18「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる」。
・その日には戦乱で焼かれたレバノンの地も園となり、森林となるであろうと預言される。
-イザヤ29:17「なおしばらくの時がたてば、レバノンは再び園となり、園は森林としても数えられる」。
・その日には苦しんでいた人々も貧しさに追いやられた人々も喜び祝うであろう。暴虐な者、不遜な者を主が撃たれるからだとイザヤは預言する。世の不正が糾され、神の国が来ることをイザヤは信じた。
-イザヤ29:19-21「苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。暴虐な者はうせ、不遜な者は滅び、災いを待ち構える者は皆、断たれる。彼らは言葉をもって人を罪に定め、町の門で弁護する者を罠にかけ、正しい者を不当に押しのける」。
・アブラハムを贖われた主は今イスラエルを贖われる。イスラエルは神を王として仰ぐ。
-イザヤ29:22-24「もはや、ヤコブは恥を受けることはない。もはや顔が青ざめることもない。彼はその子らと共に、民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする。彼らはヤコブの聖なる者を聖とし、イスラエルの神を畏るべきものとする。心の迷った者も知ることを得、つぶやく者も正しく語ることを学ぶ」。
・イザヤの時代、イザヤの預言は実現しなかったが、イザヤは後世に期待を置いてイスラエルの回復預言を行った。私たちは悪が横行する世にあって「御国が来ますように」祈り、行為する。その祈りや行為が目に見える成果になるかは問題ではない。生きている間に神の国が来なくとも、後は主に委ねる。それでいいのではないか。
-ニーバーの祈り「神よ、 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

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