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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年4月30日祈祷会(列王記下16章、主ではなくアッシリアに頼る罪)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.シリア・イスラエル連合軍の攻撃に揺れるユダ王国

・イスラエル王国では次々に王が代わり、亡国の兆しが強まっていたが、ユダ王国ではウジヤ王、ヨタム王の安定した治世の後、アハズ王の時代に、反アッシリアのシリア・イスラエル同盟軍がユダを攻め、国内は混乱した。
−?列王記16:5-6「アラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカがエルサレムを攻めようとして上って来た。彼らはアハズを包囲したが、戦いを仕掛けることができなかった。このとき、アラムの王レツィンはエイラトを取り戻してアラムのものとし、ユダの人々をエイラトから追い出した」。
・並行の歴代誌をみると、この戦争はユダ王国に深刻な打撃を与えている。
−?歴28:5-8「主はアハズをアラムの王の手に渡された。アラム軍は彼を打ち、多くの者を捕虜にしてダマスコに連れ去った。アハズはイスラエルの王の手にも渡され、大きな損害を被った。レマルヤの子ペカは、ユダで一日のうちに十二万人を打ち殺した。すべて勇士であった。彼らが先祖の神、主を捨てたからである。エフライムの勇者ジクリは、王子マアセヤ、侍従長アズリカムと王の代行エルカナを殺した。イスラエルの人々はその兄弟の国から婦女子二十万人を捕虜とし、大量の戦利品を奪って、サマリアに運び去った」。
・その時、現れた預言者がイザヤである。イザヤ7章にはユダ王国の混乱の様子が記されている。
−イザヤ7:1-2「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来た・・・アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」。
・イザヤは「ユダ王国を守ってこられたのは主ではないか。外国の軍隊ではなく主に頼れ」とアハズに迫った。
−イザヤ7:3-9「主はイザヤに言われた『あなたは・・・アハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが・・・それは実現せず、成就しない。・・・信じなければ、あなたがたは確かにされない』。

2.主に頼らず、アッシリアに頼るユダ王国の選択

・しかしアハズはイザヤの勧告を拒否し、アッシリアに援軍を求める。
−?列王記16:7-8「アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わして言わせた『私はあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、私に立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、私を救い出して下さい』。アハズはまた主の神殿と王宮の宝物庫にある銀と金を取り出し、アッシリアの王に贈り物として送った」。
・アッシリアはこの要請を好機にシリアの首都ダマスコを攻めこれを占領した。やがてアッシリアはイスラエル王国をも攻め、さらにはユダをも狙うようになる。アハズは狼から逃れるために獅子に援助を頼んだ。
−?列王記16:9「アッシリアの王はその願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上ってこれを占領し、その住民を捕虜としてキルに移し、レツィンを殺した」。
・アハズはアッシリアの介入によりシリア・エフライム連合軍から救われると、ダマスコに赴き、アッシリア王に拝謁した。そしてアッシリアの祭壇をエルサレム神殿に導入するよう祭司たちに命じた。
−?列王記16:10-11「アハズ王は、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに会おうとしてダマスコに行き、ダマスコにある祭壇を見た。アハズ王が祭司ウリヤにその祭壇の見取り図とその詳しい作り方の説明書を送ったので、祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送って来たものそっくりに祭壇を築いた」。
・アハズにとって強い者が神であった。アラム軍が勝つとアラムの神を拝み、アッシリア軍が勝つとアッシリアの神を拝んだ。彼は地上の神に頼り、天の神を仰ごうとはしなかった。
−?歴代誌28:22-25「彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげ『アラムの王の神々は、王を助けている。その神々に、私もいけにえをささげよう。そうすれば私も助けてくれるだろう』と言った。しかし、その神々はアハズにとっても、すべてのイスラエルにとっても、破滅をもたらすものでしかなかった。アハズは神殿の祭具を集めて粉々に砕き、主の神殿の扉を閉じる一方、エルサレムのあらゆる街角に祭壇を築いた」。
・私たちも同じだ。自分に幸いをもたらしてくれる限り神を拝むが、不利になると疑い始める。私たちは言う「主の手が短くて救えないのではないか、主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」と。
−イザヤ59:1-2「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。お前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。

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