1.ナジル人の誓願
・特別の誓願を立て主に献身した者は、ナジル人と呼ばれた。彼らはぶどう酒やぶどうを断つことを求められた。
―民数記6:2-4「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。」
・ぶどうはカナンの地の豊穣のしるしであった。誓願をする者は、カナンの地の豊穣から、イスラエルの原点である荒野の質素な生活に戻る事が求められた。豊かさは人を迷わせるからだ。
―申命記6:10-12「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。」
・同時に髪を切ること、死者の汚れに近づくことが禁じられた。
―民数記6:5-8「ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。主に献身している期間中、死体に近づいてはならない。父母、兄弟姉妹が死んだときも、彼らに触れて汚れを受けてはならない。神に献身したしるしがその髪にあるからである。ナジル人である期間中、その人は主にささげられた聖なる者である。」
・誓願は病気の治癒や子供の誕生等に対する感謝として自発的に為された。誓願の期間は終身の者もいたが、多くは30日、60日、100日であった。誓願の期日が終わると、通常の生活に戻った。
2.キリスト者とナジル人
・バプテスマのヨハネもナジル人の終身誓願をしていたと言われている(以下は父ザカリヤに対する預言)。
―ルカ1:15-17「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
・ナジル人は自分が禁欲する故に、他者に対しても厳しく身を律することを求める。
―ルカ3:7-9「ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」
・イエスはナジル人の生き方とは異なっていた。何故なら、イエスは自分だけの清浄を求められなかったからだ。
―ルカ15:1-7「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。・・・『言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』」
・ある人たちは、キリスト者もナジル人のように、身を清めることが大事だと禁欲を説く。しかし、個人の禁欲が往々にして、他者への律法の強制となる。全ては許されているが、全てが益になるわけではないというパウロの生き方こそ、イエスに従う生き方だと思える。
―?コリ10:23-24「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」
・これは放縦を薦めるものではない。本当の禁欲は他者に対する愛から生まれるものであり、自己の汚れを防ぐためではないことをパウロは述べている。
―?コリ8:7-13「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。・・・食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません。」