1.祭司の聖別
・祭司の任職に当たり、まず祭司は水を注がれて清められ、次に祭服を着て、最後に油が注がれる。
―出エジプト記29:4-7「アロンとその子らを臨在の幕屋の入り口に進ませ、彼らを水で清める。次いで、式服一そろいを取り、アロンに長い服、エフォドと共に着る上着、エフォド、胸当てを着せ、エフォドの付け帯で締める。それから、彼の頭にターバンを巻き、その上に聖別のしるしの額当てを付ける。次いで、聖別の油を取り、彼の頭に注ぎかけて、聖別する。」
・祭司や王は任職に際し、聖別のために油を注がれる。油注がれたものがメシヤであり、メシヤのギリシャ語訳がキリストである。イエスは自らが油注がれたものとして、主に聖別されたと宣言をされている。
―ルカ4:16-21「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。』・・・イエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」
・次に犠牲の動物が連れて来られ、祭司は動物の頭に手を置く。そのことによって祭司の罪が動物に移され、動物を屠ることによって罪の購いが為される。
―出エジプト記29:10-11「雄牛を臨在の幕屋の前に引いて来る。アロンとその子らは手を雄牛の頭に置く。あなたはそれを主の御前、臨在の幕屋の入り口で屠る。」
・手を頭に置くことによって、罪が動物に移されて購われ、職務を実行できるものとされる。使徒たちもその出発において按手を受ける。牧師も任職式において、按手礼を受ける。
―使徒13:2-3「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」
・按手の次に動物を屠り、その血を祭壇に注ぐ。血は命であり、その命を神に返すことによって、罪が購われる。
―レビ17:11「生き物の命は血の中にあるからである。私が血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」
2.血による購いの意味
・犠牲の血を流すことによって購いが為されるが、それは血が神秘的な役割を果たすのではない。民にとって大事な牛や羊を屠って燃やすことにより、惜しまないで献げることを示す。神が求められるのは犠牲の動物ではなく、その動物を献げる人の心である。
―詩篇51:18-19「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」
・何故アブラハムはイサクを捧げることを求められたのか。一番大事なものをも献げる心を求められたのである。
―創世記22:9-12「アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私にささげることを惜しまなかった。』」
・犠牲の羊は毎日捧げられた。やがて、これが習慣になり、定めになっていった。
―出エジプト記29:38-42「祭壇にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の雄羊二匹を、朝に一匹、夕暮れに他の一匹をささげる。・・・これは代々にわたって、臨在の幕屋の入り口で主の御前に献ぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。私はその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。」
・献げ物が習慣になり、定めになっていったとき、人々の心から献げる痛みが消え、献げ物がもはや購いの役を果たさなくなる。だから、キリストの犠牲が必要になった。
―ヘブル10:11-13「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。」