1.エサウの系図
・エサウは弟ヤコブが帰国し、お互いの家畜を飼うには狭くなったので、死海の南セイルの地に移り住んだ。
―創世記36:6-8「エサウは妻と子と娘と家のすべての人、家畜とすべての獣、またカナンの地で獲たすべての財産を携え、兄弟ヤコブを離れてほかの地へ行った。彼らの財産が多くて、一緒にいることができなかったからである。すなわち彼らが寄留した地は彼らの家畜のゆえに、彼らをささえることができなかったのである。こうしてエサウはセイルの山地に住んだ。エサウはすなわちエドムである。」
・その移住は先住民ホリ人を征服してのものであった。現在のヨルダンの地で、首都セラが後にペトラとなる。
―申命記2:12「ホリ人も、昔はセイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを滅ぼし、彼らに代ってそこに住んだ。主が賜わった所有の地に、イスラエルがおこなったのと同じである。」
・やがてエサウの子孫はそこに王国を造り、エドム人と呼ばれるようになり、同じアブラハム・イサクの末として、イスラエルの隣人を形成していく。
―申命記23:7-8「あなたはエドムびとを憎んではならない。彼はあなたの兄弟だからである。」
・しかし、イスラエルがバビロンに滅ぼされた時(前589年)、エドム人はユダヤに侵攻し、憎しみを買う。
―エゼキエル35:3-5「セイル山よ、見よ、私はあなたを敵とし、私の手をあなたに向かって伸べ、あなたを全く荒し、あなたの町々を滅ぼす。あなたは荒れはてる。そして私が主であることを悟る。あなたは限りない敵意をいだいて、イスラエルの人々をその災の時、終りの刑罰の時に、つるぎの手に渡した。」
・やがて彼らはイドマヤ人と呼ばれるようになり、その中から領主ヘロデが出る。彼はイエスが生れた時、自分の地位が脅かされる不安に駆られてイエスを殺そうとした。
―マタイ2:1-16「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、東からきた博士たちがエルサレムに着いた・・・ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々を遣わし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。」
2.ヤコブの生涯とエソウの生涯
・ヤコブはその性格(かかとを掴む者)もあり、生涯を通じて放浪し、最後は寄留地エジプトで死ぬ。エサウはセイルに定住し、子供たちにも恵まれて、平和と安楽の中に生涯を過ごした。しかし、エサウの人生には神との交わりや渇望はない。他方、ヤコブは神と格闘してまで神の祝福を求めた。
―創世記32:24-26「ヤコブは一人あとに残ったが、一人の人が、夜明けまで彼と組打ちした。ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。その人は言った、『夜が明けるから私を去らせてください』。ヤコブは答えた、『私を祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』」
・新約聖書はヤコブを信仰の人、エサウを不信仰の人として描く。信仰とは願い求める心である。
―ヘブル12:14-17「全ての人と相和し、また、自ら清くなるように努めなさい。清くならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。・・・彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」
・神はエサウをも捨てずに祝福された。エサウの系図が示すものは、神は正系のヤコブだけでなく、傍系のエソウも祝福されたという事実だ。神の選びとは全民族を救うために器とされた、ただそれだけの意味である。
―申命記7:6-7「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもての全ての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。」
・私たちも選ばれて神の民にされた。それは私たちが優れているからではなく、私たちが他の人々に福音を宣べ伝える器とされたことを意味する。それを忘れた時、私たちは信仰をなくしてしまう。
―?コリ1:26-31「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。・・・それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。」