1.バプテスマのヨハネの宣教
・篠崎キリスト教会の礼拝にお集まりの皆様、「新年おめでとうございます。」「一年の計は元旦にあり」年頭に目標を定め、決意を新たにする事が大切であると言われています。新年礼拝の時を迎えました。私たちは改めて、昨年1年間を振り返り、また新しい年を思います。今日は、来たるべき年がどのような年になるのか、どのような年にしたいのかを考える時、出発の時です。 この出発の時に当たり、イエスの出発点であるバプテスマの出来事から聴いていきます。今日与えられたテキストはマタイ3:13-17 です。
・物語は 3 章 1 節から始まります。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。 『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」』」(3:1-3)。イザヤ40:3は、 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」洗礼者ヨハネは終末時の預言者として現れました。当時の人々は世の終わりは近いと感じていました。イスラエルはヘロデ王の死後、三人の子供たちが領土を争い、混乱の中で首都エルサレムを含むユダ地方はローマ直轄領とされ、異邦人であるローマ総督が治めていました。ローマの支配に反対する人々はたびたび反乱を起こし、世情は 騒然としていました。その不安定な情勢の中で、人々はこの乱れた世を救うメシアの到来を待ち望んでいました。
・「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(3:4)。当時、ユダの荒れ野にはエッセネ派と呼ばれる修道僧たちが住み、祈りと断食の生活をしていました。彼等は罪を清めるために毎日水に入りましたが、ヨハネは水に入って体をいくら洗っても人間に内在する罪は洗えないことを啓示され、人々に悔改めを促す預言者として立てられます。ヨハネは叫びます「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)。終末の裁きの時が近づいているとして、彼は人々に悔改めを迫りました。当時の洗礼は異教徒がユダヤ教に改宗する際の入信儀礼でしたが、ヨハネは、神の選民とされたユダヤ人であっても、「自分の罪を告白し、罪を悔い改めなければ滅びる」と宣言し、人々に悔い改めのバプテスマを迫りました。ヨハネのバプテスマ運動は信仰改革運動でした。「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを授けられていました」(3:5-6)。
・人々はヨハネこそ世を救うメシアかも知れないと期待しましたが、ヨハネは「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と自分がメシアではないと語ります(3:11)。イエスはヨハネが「世の終わりが来た」として宣教を始めたのを風の便りに聞かれ、「内心の声」に導かれて、故郷のガリラヤを出てユダに来られました。マタイは記します「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを授けられるためである」(3:13)。
2.イエスへのバプテスマを躊躇するヨハネ
・ところが、ヨハネは、イエスの洗礼を思いとどまらせようとして、「わたしこそ、あなたからバプテスマを授けられるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか」(3:14)と語ったとマタイは記しています。それに対してイエスは答えられます「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(3:15)。通常、この箇所は「イエスは神の子であり、何も罪を犯していないのだから、 悔い改めのバプテスマを授けられる必要はない」と、ヨハネがイエスに洗礼を授けることをためらったとその後の教会は理解して来ました。しかし、これはあまりにも教理的な解釈と言えるでしょう。イエスはあくまでも「人間の子」として生まれ、「人間の子」として育ち,そして、「人の子」としてこの世の矛盾に怒りを感じられていたと思えます。イエスを「人の子」としてみることによって、大事な真理が見えてくるような気がします。
・イエス当時の神殿は民の贖い(罪の救済)の役割を担っていたにも関わらず、金持ちや貴族だけに目を向け、贖罪の献げものをすることの出来ない貧しい人々の救済は放置していました。また律法学者やファリサイ派の人々は律法を守れない貧しい人々を、「罪人」と断罪して切り捨てていました。イエスは、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)神はこのような不条理を放置されない。彼らもまた神の愛する子たちだ、彼らのために何かをしなければ、その決心がイエスのバプテスマの動機にあるように思えます。イエスはバプテスマ後、故郷には戻られませんでした。家族を棄て、故郷を棄てて、イエスはバプテスマを授けられました。イエスのバプテスマは決意の表明だったのです。イエスを「人の子」とした時見えてくる真理が、イエスを「神の子」として教理的に説明することによって、その真理が隠されてしまうのかもしれません。
・マタイは、「イエスは洗礼を授けられると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」と記します(3:16)。イエスの公の生涯は聖霊、神の霊を受けることから始まりました。そのとき、「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者という声が、天から聞こえた」とマタイは記します(3:17)。この天からの声をイエスが聞かれたということは、イエスが神の子として召命されたことを示します。「あなたは私の愛する子」、父なる神が、ご自分とイエスとの間に父と子という深い愛の関係があることを明らかにして、イエスがこれから歩もうとしている道を支えて下さるとの宣告です。
・「私の心に適う者」、神の御心を行う者としてイエスが立てられたことを示します。イエスはこの洗礼を通して、神の子としての使命が自分に与えられていることを自覚されました。四福音書すべてがイエスのバプテスマの時に、聖霊が降下したことを述べます。マタイの提示した祝福の言葉は、イザヤ書からの引用です (イザヤ42:1「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」)。聖霊降下を通して、「イエスがメシアとして叙任された」とマタイは理解しています。イエスはバプテスマを授けられた後も、ヨハネの弟子として荒れ野に留まっておられました。
・その後、ヨハネはガリラヤの領主であったヘロデ・アンテイパスを批判したため、捕えられ、死海の近 くにあるマケロスの要塞に幽閉されます。(マタイ14:3)「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。」イエスがヨハネ共同体から独立して宣教を始められたのは、その後です。マタイは記します「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた・13・14・15・16・そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。』」
(4:12-17)。マタイは「神の国」の代わりに「天の国」という言葉を用います。意味は同じです。「神が支配される世」が来るとの宣言です。マタイはユダヤ人として神の名をみだりに口にすることを避けて、「神の国」を「天の国」と読み替えます。その結果、後代の人々はこの「天の国」を「天国」と誤解し、福音(救い)とは「死んで天国に行くことだ」と誤読するようになります。マタイの罪、その後の教会の解釈の誤りは重いと思います。神の国は近づいたとは今現在、神の支配が始まったことを指します。(ルカ11:20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ)。
・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届きます。ヨハネの使信は「審きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされるだろう」というものでした。「良い行いをしない者は集められて火で燃やされる」というのがヨハネの考える審判であり、メシアとはその裁き主でした。しかし、聞こえてくるイエスの行動は罪人の裁きではなく、罪人の赦しでした。ヨハネはイエスが本当にメシアかどうか疑問に感じ、イエスに使いを送ります。その使いに、「イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」(11:4-6)。
・バプテスマのヨハネの因って立つ所は旧約聖書です。ヨハネは「信じない者は滅びる」と宣告しました。しかしイエスは「そうではない」と宣言されました。旧約聖書・律法の書は、バビロン捕囚期に編纂されました。神に背き、悪を行い、神を畏れず、悔い改め無いユダ・エルサレムの王侯貴族や民衆らを抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、捕囚の民として70年後に、正しくも無く、心が真直ぐでもなく、かたくなな民をアブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるために、あるいは建て、植えられ、残りの者を残されました。 創世記8:21 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。 イエスは神の赦し(福音)を宣言され、その神に対する人間の応答として新生のためのバプテスマを説かれたのです。ヨハネは預言者でした。預言者は人々の罪を告発し、悔改めを促し、神に相応しく生きることを求めます。しかし、このような道徳的行為では人は救われません。何故ならば、人間の罪は、自己を救うにはあまりにも重いからです。
3.新生のためのバプテスマ
・今日の招詞にローマ6:3-4を選びました。礼拝プログラムの下の方にあります。一緒に読みたいと思います。「 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を授けられたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を授けられたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」。ヨハネのバプテスマはユダヤ人の悔い改めのために始められました。ユダヤ人は神に選ばれたしるしとして割礼を受けています。しかし、割礼だけでは不十分です。何故ならば人の罪は割礼を受ければ赦される限度を超えているからです。
・パウロは言います「 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。 口は、呪いと苦味で満ち、 足は血を流すのに速く、 その道には破壊と悲惨がある。」(ローマ3:10-16)。私たちはこのパウロの言葉を聞くとき、自分はその様な罪人ではないと思うかも知れません。しかし、冷静に自分を含めた人間存在を見つめた時、このパウロの言葉が 誇張ではないことを知ります。私たちは自分以外のものは愛せないし、時には自分自身も愛せない。自分より幸福な人を妬み、自分を嫌う人を憎みます。「(私たちの)のどは開いた墓であり、(私たちは)舌で人を欺き、(私たちの)唇には 蝮の毒があり、(私たちの)口は呪いと苦い言葉とで満ちている」のです。これが私たちの本性、私たちの罪の姿です。私たちは自分の力ではこの罪の縄目から解放され、神にふさわしい者としての人生 を歩めない存在なのです。だから私たちは洗礼を授けられ、イエスが十字架で苦しまれた様に苦しみ、そして、死なれたように古い自分に死に、イエスが復活されたように水から引き上げられて新しい命を生きるのです。この「新しい命」を生きることこそ、神の国の福音です。パウロはいいます「 死んだ者は、罪から解放されています。 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:7-8)。
・「キリストと共に死に、キリスト共に生きる」、それはどのような人生でしょうか。マザー・テレサは イエスを模範とした生き方を私たちに示します「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、 人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達しようとする時、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、 やり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。気にすることなく、作り続けなさい。助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。たとえそれが充分でなくても、気にすることなく、最良のものを この世界に与え続けなさい。最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」(マザー・テレサ「あなたの中の最良のものを」から)。
・神と人との間が正されることによって、人と人との間に「愛と和解」が生まれます。それこそがイエスの示された道です。その道を歩む決意を年の始めにすることが出来ればこの年は恵みに満ちた年になるのではないでしょうか。年の初めに、人々は今年1 年が無事でありますように、災いが来ませんようにと祈ります。しかし、キリストに出会った者は別の祈りをします「今年もまた、苦しみや悲しみがあるでしょ う。それは人の罪が作るものです。その闇を取り除くために、私たちを用いてください」と。
祈ります。
真の生命の神のみ名を賛美します。
今年1年も喜びの時も悲しみや苦難の時もインマヌエル「共におられる神」を感じ続け、その真実を証し続ける事が出来ます様に。
神は人間の悪は人間が正すべきとして、その使命と能力を与えてくださっている。と信じます。平和を享受する者でなく、平和を創り出す者となりますようお導き下さい。
神のアハベ(愛)・慈しみ=ヘセド(誠実で強い絆で結ばれた愛)・憐れみ=ラハミム(共感共苦)・ヘーン(与える愛、無償の愛、神の愛)、そして、神の永遠の忍耐を畏れ、感謝し、ダート・主をより知る事が出来ます様に。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。
アーメン。