江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年5月4日(ガラテヤ1:1-12 それはキリストの福音?キリストの福音から離れるな)

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1.福音を捨てて律法に戻ろうとする人々へ

 ・今月聖書教育はガラテヤの信徒への手紙です。本日はガラテヤの1章から聴いていきます。ガラテヤ書は短い書簡ですが、この書は宗教改革者マルティン・ルターがカトリック教会に対して反旗を翻す契機になった書簡として知られています。中世のカトリック教会は免罪符を買えば、罪の償い(つぐない)を軽減する証明書を発行していました。従来、キリスト教徒が罪を犯した場合、まず罪を悔い改め、司祭に告白し、最後に償いをすることが必要でしたが、免罪符という便利な制度が出来て、罪の償いをお金で済ませることになりました。発端は十字軍時代で、十字軍に参加できない者は寄付を行うことで罪が許されることになり、その後、教会の建設費などの費用捻出のために免罪符が繰り返し販売されるようになります。教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂建築の資金調達のため、ドイツで免罪符を販売します。しかしルターは「救いをお金で買うのはおかしい」と反発し、その根拠をガラテヤ書の信仰義認の教えに見出します。信仰義認、「救いは神から来る恵みだ。善行を積み、免罪符を買って救われるのではない」という信仰理解です。

・お金で救いを買うのは論外ですが、善行の行いを通して救われるとの思想は私たちの中にもあります。善い行いを積めば神は報いて下さるとの考えです。また人は儀式の中に救いの要素を認めます。例えば洗礼(バプテスマ)がそうです。洗礼は救われた感謝の神への応答として信仰告白し、授かりますが、いつの間にか「洗礼を授かったのだから私は天国に行ける。」、「あの人は洗礼を授かっていないから救われない。」と言い始めます。洗礼という神への感謝の応答行為が、いつの間にか救いの条件になってしまい、授かっていない人を排除することも時には起こります。そして、それが教会を二分する争いになることも起こります。ガラテヤ教会における割礼の問題も洗礼と同じ様に、割礼が救いの条件になるのか。それはキリストの福音かどうかという疑問を提示する課題でした。救いをどう考えるかという課題もありますが。

・ガラテヤは今のトルコ、当時の小アジアをさす言葉です。パウロは小アジア地域のアンティオキアやルステラ、イコニウム等の諸都市を何度か訪れて伝道し、ガラテヤ地方にいくつかの教会が誕生しました。彼はその後エペソに移りましたが、そのパウロの元に、「ガラテヤの人々がキリストの福音から離れ、割礼を受けようとしている」との知らせが届きました。パウロは、ガラテヤの人々がこんなにも簡単に福音から離れて行ったことにびっくりして、手紙を書きました。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています」(1:6)。「私はあきれ果てています」ギリシア語サウマゾーは「私は驚いています(新改訳)。私は不思議に思います(口語訳)。」パウロの去った後に、エルサレム教会から派遣されたユダヤ人伝道者たちがガラテヤ地方を訪れ、「信仰だけでは人は救われない。割礼を受けて、律法を守らなければ、本当の救いはない」と宣教し、人々がその教えに従おうとしたのです(使徒15:1)。

・その人々に、パウロは語ります「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そう(くつがえそう)としているにすぎないのです」(1:7)。パウロは続けます「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私たちが前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」(1:8-9)。「異なる福音などない。キリストを信じるか、サタンを信じるかのどちらかだ」「それはキリストの福音か?」とパウロは激しい言葉で語ります。パウロは本気で怒ったのです。

・「仮に救われるために割礼が必要なのであれば、キリストは何のために十字架にかかり、そして死なれたのか」とパウロは主張します。「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうと、御自身を私たちの罪のために献げてくださった」(1:4)。キリストの十字架、そして死を通して私たちは義とされたのです、「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(5:2)。あなたがたは罪の中に閉じ込められていた。そのあなた方を自由にするためにキリストは死んで下さった。その死を無駄にするのかとパウロは論じます。

 

2.なぜ人は律法に惹かれるのか

・ここで問題になっている律法とは、神の戒めです。「殺してはいけない」、「姦淫してはいけない」、「盗んではいけない」等々が、人間のあるべき規律として与えられました。この教えがなぜ、人を罪の地獄に追いやるのでしょうか。最初に律法が与えられたのはモーセの時代でした。人々はエジプトで奴隷として働かされ、休息の日はありませんでした。その彼らがエジプトから救い出された時、安息日規定が与えられました。出エジプト記は記します。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」(23:12)。エジプトであなたがたは奴隷として働かされ、休むことができなかった、今あなたがたは救われ自由になった、だから七日目には休みなさいと神は言われたのです。恵みとして安息日が与えられ、人々は安息日に礼拝を持ちます。しかし、その規定が時代を経て少しずつ変わっていきます。安息日に礼拝に出席しない人が出始めると、規定は「安息日を守らない者は罰する」に、最後には「安息日を守らない者は死刑にする」と変わっていきます。安息日の礼拝を大事に守る人は、守らない人を許せなくなるのです。そのため、祝福が呪いに変わっていきました。

・割礼もそうです。最初に割礼を受けるように求められたのはアブラハムでしたが、それはアブラハムが選ばれて神の民となったのだから、「恵みのしるしとして一族すべてが割礼を受けなさい」というものでした(創世記17:9)。祝福のしるしとしての割礼だった。ところがそのうちに、「割礼を受けない者は救われない」、「割礼を受けない者は呪われる」と変わっていきます。エルサレム教会から派遣された伝道者たちも、ユダヤ人として割礼を受けていました。そして、「イエスも割礼を受けたのです。」とガラテヤの諸教会の信徒にも割礼を強要するようになり、いつの間にか、割礼を受けることが救いの条件になっていきます。恵みとしての律法が、人を縛り、不自由にさせるものに変化していきます。

・ここに律法主義の罪があります。パウロが批判するのは、律法そのものではなく、人を奴隷化する律法主義です。「神の子とされたしるしとして割礼を受けなさい」という祝福が、「割礼を受けなければ救われない」という呪いに変えられていく。「週に一度は休みなさい」という祝福が、「安息日を守らない者は呪われる」という規定に変わって行く。そこに律法主義の罪があり、その罪の贖い(あがない)のためにイエスが十字架につかれ、そして死んだのです。人が再び神の子としての自由をいただく道がキリストによって与えられた、それが福音だ、それなのにあなたがたは、この福音を捨て、律法の奴隷に戻ろうとしているとパウロは警告します。反対者たちは、パウロの教えはエルサレム教会の教えと異なるから誤りだと主張しました。これに対して、パウロは、自分は人からではなく、直接キリストから啓示された福音を伝えていると反論します。「私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(1:11-12)。

 

3.恵みを無駄にするな

・招詞にローマの信徒への手紙3章28節を選びました。次のような言葉です。ご一緒に読みましょう。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」。

・私たちクリスチャンは何によって義とされたのでしょうか。私たちの神、イエス・キリスト、聖霊を信じる三位一体の神を信じる信仰でしょうか。
わたしは違うと思うのです。

イエス・キリストの神への信仰が私たちを義として神の子の資格を与えてくださったのです。そして今もまた義として頂いているのです。
2000年も前に。ですから驚くべき偉大な御業と言われるのです。
そして私たちはこの驚くべき偉大な御業に感動し、感謝し、イエス・キリストを主と仰ぎ、
主イエス・キリストに見習う者として信仰告白し、洗礼を授かるのです。
イエス・キリストが友のために死んだように、私たちも友のために死ぬべきなのでしょうか。
これも違うと思うのです。
神を愛し、自分を愛し、神と自分を愛するように隣人を愛するためです。
イエスは十字架上で、自分を殺す者にも執り成しの祈りを祈られました。
裏切った弟子たちを兄弟と言って宣教を託されました。
イエスは、小さい者・小さくされた者、弱い者・弱くされた者、年配者、赤ちゃんとその母親、子供、病気の者、隣人、寄留者にも居心地の良い存在でした。殺す者、裏切る者にとっても居心地の良い存在でした。
私たちにとってもイエスは居心地の良い存在です。教会はイエスの体であると言われています。
ですから教会も教会に呼び集められた者にとっても居心地の良い存在であるべきだと思います。
皆さん、この篠崎キリスト教会は、居心地の良い存在・教会でしょうか。
自分自身にとって居心地の良い存在ではなく、教会の兄弟姉妹にとって、新来者にとって、久しぶり来られた方にとって居心地の良い教会でしょうか。
ここで先ず一つ皆様に私は謝らねばならない事があります。先月篠崎教会の大きな柱のおひとりの兄弟の葬儀がありました。この葬儀の報を私は教会員全員にお伝え出来ていなかったのです。全員に伝わっていると思い込んで、自らは確認せずにいました。自分で教会員全員に連絡し、確認すべきでした。連絡が届かなかった教会員の方々とご遺族の方々にこの場をお借りして謝罪します。申し訳ありませんでした。
この様なことが無い様に自戒を込めて申し上げます。居心地の良い教会の為に。

・さて居心地の良い教会の為にひとつの提案があります。
賛美指導者や司会者が礼拝の始まる前にスマホ・携帯電話の電源をお切りになるか、マナーモードにと注意しますが、実際に礼拝中にスマホや携帯電話の着信音が鳴る場合があります。
単に電源切り忘れか、マナーモードにし忘れた場合は、次回から電源は切られている又はマナーモードにしてあると思っても礼拝前に必ず確認し、対処・処理をお願いします。
それでも着信音が鳴った場合は、その方は大事な電話連絡を待っていたのだと皆さんで理解するようにしませんか。その方に、その場や追いかけて、又後から注意・𠮟責などなさらない様に。
礼拝中にあちこちで通話中というのは勿論困りますが。そして、注意・𠮟責した方を注意することもやめましょう。スマホを鳴らした方もその方を注意した方もわたしたちが罪に定めることをしません。罪を定めるのは神だけだからです。

・律法・決め事・約束事は破られるためにある訳ではなく、破られることがあります。
破らざるを得ない事・守れない事があります。守らない事では決してなく。

・行為義認の教えが、ガラテヤ書の「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」とパウロの言葉によって誤りであることに気づきます。「人は律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によってでもなく、イエス・キリストの神への信仰によってのみ義とされる」。人を救うのは神であり、人の行為ではない。人のイエス・キリストへの信仰も行為義認以外の何物でもありません。この信仰義認をガラテヤ書から学ぶべきです。

・イエス・キリストの神への信仰が私たちを救いへと導いているのです。イエス・キリストの神への信仰によってのみ義とされるのです。この驚くべき偉大な御業を今日皆さんと共に再確認出来ました。
パウロは語りました「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」(2:19)。
「継続して今もなお十字架につけられたままの姿をもって、私たちとともに苦難のなかでにいてくださる、苦難のなかで私たちに同伴してくださっているキリスト」を示しています。今も苦難の中にいる人々と共にイエス・キリストは十字架につけられ続けて苦難を共にしておられるのです。
律法の奴隷になることがキリストの福音ではありません。行為義認の奴隷になることなく、イエス・キリストの驚くべき偉大な御業を共に証続けていきたいと思います。神は愛です。

 

祈り

真の命の神のみ名を賛美します。

私たちは、イエス・キリストを通して神を知り、

イエス・キリストの十字架、そして死と復活によって、

義とされ、救いの道へと導かれています事を感謝します。

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊と共に教会の兄弟姉妹との交わりを感謝し、

イエス・キリストの名前で祈ります。アーメン。

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