江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年5月11日(ガラテヤ2:15-3:6、十字架のキリストと共に)

投稿日:

https://youtu.be/lt6KxomqpS8

 

 

1.すべての人は信仰によって義とされる

 

・ガラテヤの信徒への手紙、2回目です。本日の説教箇所は今お読みいただいたガラテヤの信徒への手紙2章15節から21節小見出し「すべての人は信仰によって義とされる」と3章の1節から5節迄小見出し「律法によるか、信仰によるか」の前半です。説教題は「十字架のキリストと共に」です。信仰義認・律法・割礼についてお話しさせていただきます。

‐2章16節「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」この中心聖句、

・「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。」これは新共同訳ですが、新改訳も口語訳もLIB(リビングバイブル)もほぼ同じ様に訳されています。皆さんはこれを理解できますか?

2018年版の新しい共同訳の聖書協会・共同訳は、

「ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、キリストの真実によって義としていただくためです。」と訳されています。もっとわかりやすく訳しますと、

「イエス・キリストの神への信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、キリストの神への信仰と私たちのキリストへの信仰によって義としていただくためです。」となります。

・私たちは、「いさおのないまま」に、「あるがまま」に、私たちに功がないままに、私たちが行為・行動する前に神の人への愛によって、イエス・キリストの神への従順な信仰によって義とされたのです。

・イエス・キリストの十字架・そしてその死の時に誰もイエス・キリストを信仰していませんでした。誰もイエスを信じていませんでした。女性たちとヨハネがその場に居たと記されていますが、ただ悲しんで絶望の中にいただけでした。弟子たちもただ恐怖におびえて逃げて家に隠れていました。しかし、神がイエスを起こされ、弟子たちに現れた時、イエスの十字架は「共におられる神」の姿であり、その死は人の罪の贖いの為と知らされたのでした。人が信じる・信仰するという行動の前に神はイエス・キリストの神への信仰によって、人を義として、神の子としての資格を与え、救ってくださったのです。私たちがキリスト・イエスを信じる前に神はイエス・キリストの神への信仰によって私たちをいさおのないまま義としてくださったのです。これが福音であり、信仰義認です。
ですから、先週も話しました様に、神の驚くべき偉大な御業と言われるのです。

 

2.律法によるか、信仰によるか

 

・律法も同様です。神がイスラエルの民をエジプトの奴隷から自由の民へと解放された時に、モーセを通して十戒・そして律法が与えられたのです。イスラエルの民が「いさおのないまま」律法が与えられたのです。奴隷には休みは有りませんでしたが、1週間に1日休みが与えられ(安息日)、神と自分を愛し、隣人を神と自分と同じように愛しなさい。と神と人との契約・信仰と生活の規則を神から選ばれた民として与えられたのでした。今でもユダヤ人は異邦人の留学生を自宅に受け入れ、安息日にその留学生に買物や料理をして貰ったり、エレベーターの釦を押して貰っている。と聞いたことがあります。しかし、「律法を実行」しても救われませんでした。律法に問題があるのではなく、律法主義・律法の奴隷になることが問題でした。律法を実践し、行う者は、律法を実行できない者を許せなくなり、罪に定めるようになるからです。
パウロは語ります。「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(1:13-14)。パウロは熱心な律法主義者、割礼論者でした。そのパウロに復活のイエスが啓示され(1:15-16)、彼は間違いを悟り、福音の迫害者から伝道者に変えられます。彼は最初ダマスコで、その後故郷のタルソスで、10数年の年月を福音伝道についやします。そのタルソスにバルナバが来て、パウロをアンティオキア教会の協力者に迎えます。そのアンティオキア教会で「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:26)。エルサレムに最初のキリスト教会が建てられましたが、その教会はあくまでもユダヤ教ナザレ派の教会でした。しかし、アンティオキアに生まれたのはユダヤ教の伝統から自由な、異邦人もユダヤ人も共に礼拝するキリスト教会でした。

・パウロは熱心な律法学者として、律法による救いを求めて苦闘しました。その体験からパウロは語ります。「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(2:19-20)。「律法は人を救えない。私は復活のキリストに出会ってそれを知った。だから私は律法に死に、キリストに生きるようになった」とパウロは語ります。

・割礼も同様です。アブラハムは、「あなたは多くの国民の父となる。」と神に祝福された後アブラハムと息子のイシュマエルは、すぐその日に割礼を受けた。創世記 17章
アブラハムは割礼を受けた、その後祝福されたのではなく、神からの祝福が先にありました。
割礼がユダヤ人の間で宗教的儀式として行われるようになったのは、神とアブラハムとの契約のしるしとして、アブラハムの家のすべての男子が割礼を受けたことによります(創世記17:1‐14)」。創世記は選びのしるしとして、イスラエルの民は割礼を受けるように神が命じ、もし割礼を受けない男子がいるならば、その者は民から断ち切られると記しています(創世記17:23‐27)」。 割礼はユダヤ人にとっては「救いのしるし」であり、当然受けるべきものでした。当時の聖書・旧約聖書が「割礼を受けよ」と命じるのであれば、受けなければいけないとガラテヤ教会の人々が考えたのは当然です。今日でもユダヤ教徒及びその流れを汲むイスラム教徒は割礼を受けます。エルサレム教会のユダヤ人が、『異邦人も割礼を受けて律法を守らなければ救われない。』と主張したのは彼らにとっては当然の事だったのですイエスもパウロも割礼を受けていました。。エルサレム教会のユダヤ人は、割礼を受けていない者と共に食事はしません。割礼を受けていないガラテヤの教会の人々と共に食事をしない。ということは共に礼拝も主の晩餐も出来ない事になります。

・それに対してパウロは「あなた方は間違っている」と声を大にして叫びます。そのパウロが教会の人々を説得するために書いた手紙がガラテヤ書です。パウロは語りました「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(1:9)。パウロが述べ伝えたのは「十字架の福音」でした。人はキリストの十字架の贖いにより救われる、それなのに救いのために割礼が必要であれば、「キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。

・しかし、エルサレム教会の人々はそれを喜ばず、『異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない』と主張し、教会内に混乱が起き、バルナバとパウロは問題を話し合うためにエルサレムに行きます(使徒15:1-2)。使徒会議とよばれる最初の教会会議です。パウロは書きます「十四年たってから、私はバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際テトスも連れて行きました・・・私と同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした」(2:1-3)。パウロの弟子テトスは異邦人であり、当然「割礼を受けさせよ」との圧力がかかりましたが、パウロはそれを拒否し、エルサレム教会の人々もそれを容認しました。会議では異邦人に割礼を強要しないことが決められます。しかし、パウロの弟子テトスは割礼を受けた。と思われます。割礼を受けないとエルサレム教会のユダヤ人と共に礼拝も食事も主の晩餐も出来ないからです。テトスは強要はされずに、自らの意思で割礼を受けたものと考えられます。救いの為では決してなく、エルサレム教会のユダヤ人と共に食事をするために。

・パウロは続けて語ります「彼らは私に与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、私たちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々(ユダヤ人)の処に行くことになったのです」(2:9)。割礼問題は解決したと思われていました。

・しかし会議で決まったもののユダヤ人の律法に対する執着は消えませんでした。パウロの理解者であったペテロやバルナバでさえも、律法主義者に押されて妥協し始めます。「ケファがアンティオキアに来た時・・・ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」(2:11-13)。パウロはこの事態に直面し、激しくペテロに抗議します。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」(2:14)。

・当時、主の晩餐式は共同の食事の中で営まれていました。共に食卓につかないことは、共に礼拝をしないことを意味し、見過ごしに出来ない問題でした。だからパウロはユダヤ人キリスト者の態度を激しく批判します「律法により救われるのならキリストは何のために死んだのか」と。彼は手紙に書きます「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストの神への信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(2:16)。律法(善い行いや割礼)によっては誰も救われない、だからキリストの十字架を仰ぐ、それなのにまた律法に戻ろうとする。それはキリストの死を無意味にすることだとパウロは語ります「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。

・しかし、ガラテヤの人々が、エルサレム教会でのテトスの同様に、決して救いの為でなく、エルサレム教会のユダヤ人兄弟と共に礼拝・食事・主の晩餐をするためだけに割礼を受ける。とパウロに伝えたら、パウロはどの様に反応し、答えたでしょうか?

・招詞に、ローマの信徒への手紙6章6~8節を選びました。このような言葉です。ご一緒にお読みしたいと思います。
ローマ6:6~8 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

・キリストの支配にある私たちの生き方は、現実のこの世を無視した生き方ではなく、信仰による生き方です。キリストの十字架を仰ぎ、キリストの死に目を注ぎ、キリストにすべてを委ねる信仰による生き方です。その信仰による生き方は、私たちを愛し、私たちの為にご自身を捧げられた神のみ子がいたからこそ、出来る生き方です。いつの時でも、私たちに先立つ、神の愛・救いのご計画があり、主イエス・キリストの恵みがあることを、とても幸いな事と皆様と共に感謝します。

・パウロはキリストにある信仰生活を生きることによって、「神の恵みをないものにはしません」と語ります。ユダヤ教の律法主義者たちは律法を神の恵みと考えていました。キリストの救いは、イエスの言われた様にその律法を完成させるものであるといえます。「律法からの解放」といえます。

・ユダヤ教の律法主義者のように、人の行いを過信し、律法は実行できるものとするのなら、キリストの十字架。そしてその死は無駄な死になります。その様な神の恵みを無にする事がありませんように。

・ですからパウロはキリストの神への信仰の姿・十字架のキリストと共にキリストの信実にパウロ自身も応答しようと共に生きていると力強く語るのです。私たちもこの神の愛、そしてイエス・キリストの恵みを感謝し、神の愛の中にイエス・キリストの恵みと共に信じて生きてゆきたいと思います。

 

祈り

真の生命の神のみ名を賛美します。

パウロは「キリストの福音」を復活のキリストご自身との直接の出会い・啓示によって与えられました。

その「キリストの福音」によって、サウロがパウロへと生き方が変えられたのです。

パウロの「呪われるがよい」とは人をキリストの福音から引き離し、律法の奴隷としようとするユダヤ人と自分自身の過去のサウロを神の裁きに委ねると語っているものと覚えます。

いさおのないままに、義としてくださったイエス・キリストの神への信仰に感謝します。アーメン。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2025 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.