1.空の墓
・今日、イースター(復活日)のお祝いをするために会堂に集まりました。イースターは、私たちにとって一年で最も大事な礼拝です。イエスの生涯は十字架死で終わったのではなく、復活されたからこそ、意味があり、そのことを伝えたいと願うからです。ただ復活は現代人には理解の難しい出来事です。イエスの受難は歴史的な出来事として語ることが出来ますので、四福音書はほぼ同じ記述を伝えます。しかし、復活についての福音書の記述はばらばらです。マルコはイエスの復活を告げ知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失っていた」と書き(マルコ16:8)、ルカは婦人たちの報告を聞いた弟子たちが「たわごとのように思われたので信じなかった」(ルカ24:11)と記し、マタイでは復活のイエスに出会った弟子たちの中に「疑う者もいた」(マタイ28:17)とあります。今日読みますヨハネ福音書では「イエスの遺体がなくなった」との報告を受けたペテロたちが墓に急ぎますが、「イエスの復活を理解できなかった」とあります(20:9)。四福音書とも復活を信じることがいかに困難であったかについて伝えています。
・復活は直接目撃した人でさえ、信じることが難しい出来事でした。しかし復活は私たちにとって最も大事な事柄であり、わからないでは済まされない出来事です。今日はヨハネ20章の記事を中心に復活の出来事を学んでいきます。イエスは金曜日の午後3時ごろ、息を引き取られました。日が暮れると安息日が始まり、聖なる安息日に遺体を十字架にかけたままでいることは禁じられていましたので、イエスの遺体は、あわただしく十字架から取り降ろされました。イエスの遺体はアリマタヤのヨセフが埋葬を申し出たので彼に引き渡され、ヨセフはイエスの遺体を亜麻布で包み、自分の墓に埋葬しました。
・十字架に立ち会った婦人たちは、一部始終を見ていました。日が落ち、安息日に入りました。婦人たちは、イエスの遺体に香油を塗り、相応しく埋葬したいと願いましたが、安息日の外出は禁じられていたため、その日は一日待機し、翌日曜日の夜明けと共に墓に急ぎました。ユダヤの墓は岩を掘り抜いて造る横穴式で、入り口に石を置いて蓋をします。墓についてみると、墓から石が取り除いてありました。婦人たちは墓の中をのぞいて、イエスの遺体がなくなっているのに気づきます。婦人たちの一人、マグダラのマリアは、誰かがイエスの遺体を取り去ったと思い、震えながら弟子たちの所に走って伝えます「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません」(20:2)。
・「イエスの遺体がない」との報告を受けた弟子のペテロと愛弟子が急いで墓に走りました(20:2-3)。二人が墓に着いて、中をのぞくと、墓は空であり、遺体を巻いた亜麻布はありましたが、遺体は何処にもありません。二人の弟子たちは、何が起きたのかわからないままに、家に帰りました。マリアは再び墓に来ます。彼女は、弟子たちが帰った後も、あきらめきれない思いで墓の側にたたずみ、泣いていました。そこにイエスが来られます。イエスはマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と声をかけられました(20:15)。マリアはそれがイエスとわからず、彼に言います「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります」(20:15)。イエスは「マリア」と彼女の名を呼ばれます。マリアはその人がイエスとわかり、「ラボニ(先生)」と呼んで、イエスに取りすがりました。
2.復活を信じることの出来ない弟子たち
・マリアは再び弟子たちのところに帰り、「私は主と出会いました」と報告しますが、弟子たちは信じることが出来ません。併行箇所のルカは「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)と記します。ヨハネは語ります「(その日)弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた」(20:19)。弟子たちはイエスがローマ軍に捕らえられ、十字架にかけられ、無力で死んで行く様を見ました。「この人はメシア(救い主)ではなかった」、弟子たちは生きる目標を失くして、打ち沈んでいました。彼らは、肉では生きていましたが、魂は死んでいたのです。その弟子たちにイエスが現れます。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:19-20)。イエスが弟子たちにご自分の手とわき腹をお見せになった時、彼らはその傷を見て、十字架で死なれたイエスが復活されたことを知り、喜びました。
・ここに復活の出来事をどのように理解すべきかの示唆があります。イエスの遺体を納めた墓が空であることを知っても、それは何の力も持ちません。ヨハネは、空の墓を見た弟子たちが、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」(20:9)と記します。また、他の人が証言しても何の意味もありません。弟子たちはマリアの「私は主を見ました」(20:18)との証言を聞いても信じませんでした。弟子たちが復活を信じたのは、自分が直接復活のイエスに出会い、その手の釘の跡を見、わき腹の傷跡に触れたからです。復活は、私たち自身が直接体験しない限り、信じることが難しい出来事なのです。
3.キリストのよみがえりを伝える
・今日の招詞にヨハネ20:27-28を選びました。次のような言葉です「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『私の主、私の神よ』と言った」。復活のイエスが弟子たちに現れた時、トマスはそこにはいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」(20:25)と言ってもトマスは信じません。彼は言います「私は、その手に釘の跡を見、この指をその釘跡にさし入れ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、決して信じない」(20:25)。
・トマスは実証されうるものでなければ決して信じません。しかし、イエスは信じることの出来ないトマスのために、再度現れたとヨハネは記します。8日の後、次の主日、イエスが再び現れ、トマスに言われます「おまえは見ずに信じることは出来なかった。この釘跡と槍跡に触れても良い。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20:27)。トマスはイエスの前にひざまずき、告白します「わが主、わが神」。教会の信仰告白の核心が、信じることの出来なかった弟子において語られました。この日は最初の顕現から8日目でした。1週間前の日曜日に復活のイエスに出会った弟子たちは、次の日曜日にイエスと再び出会うために集まっていました。既に礼拝が始まっていたのです。それから2000年、教会はイエスの復活を覚えるために礼拝を続け、その礼拝の中心がイースター礼拝です。
・キリストの復活を信じるかどうかは、私たちが現在をどう生きるかを決定します。復活を信じることが出来ない時、人生は死で終わり、現在を楽しむことに関心は集中します。しかしやがて死にますから、復活を信じることが出来ない時、その生涯は終身刑を言い渡された囚人のようです。死で全ての望みが砕かれますから、そこには希望はありません。しかし、キリストの復活を信じる時、人生の意味は変わってきます。死が終わりではなく、死を超えた人生が開けるからです。キリストは十字架で権力者によって殺されました。そのイエスが復活されたということは、「人が倒した者を神が起こされた」ことを意味します。神は悪をそのままには放置されない、神は「悪を変えて善と為す」力をお持ちであることを私たちは知ります。現実にどのような悪があろうとも、その悪は必ず終わることを信じますから、私たちは悪に屈服しません。どのような困難があっても、「悪を変えて善と為す」神がおられるから、絶望しません。私たちが復活を信じるということは、この世界が「神の支配される良き世界」であることを信じることです。その信仰が希望をもたらします。
4.復活の命に生かされる
・ヨハネは語ります「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)。私たちは神を見ることはできません。神は霊だからです。しかし、肉となったイエスを通して、私たちは神を知ることができます。そして私たちが「イエスが神の子である」ことを知るのは、イエスの復活を通してです。よみがえったイエスは、復活を信じることができなかった弟子トマスに言います「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)。復活は信仰の目がなければ見えません。マリアは最初に復活のイエスと出会った時、その方がイエスだとはわからず、「マリア」という声を聴いてイエスが見えました(20:14)。エマオに向かう弟子たちも、イエスが同行されてもわからず、食卓のパンを裂かれるイエスの祈りを聴いて、わかりました(ルカ23:30-31)。信仰は「見る」のではなく、「聞く」ことから始まるのです。それが「見ないで信じるものは幸い」だとの意味です。
・ヨハネ福音書は紀元90年頃に書かれています。イエスの十字架と復活から60年が経過し、イエスに出会った弟子たちも、後継者たちもすでに亡くなり、教会を形成していたのは三代目、四代目の信徒たちです。彼らはもはや復活のイエスに会い、彼を見ることはできません。しかし礼拝の中で、彼らはイエスが復活されたとの福音を聞き、信じていくのです。イエスが最初に弟子たちに現れたのは死から三日目、主日の日曜日でした。次にトマスに現れたのは一週間後の主日でした。私たちは教会の礼拝の中で福音を聞くことにより、主であるイエスに出会うのです。私たちは今日、会堂に集まりました。ここにイエスが臨在されると信じる故です。
・復活のイエスに出会った者はどのように変えられるのか、八木重吉の詩は復活の命を生きる生き方かを私たちに示します。彼は歌います「キリストわれによみがえれば、よみがえりにあたいするもの、すべていのちをふきかえしゆくなり、うらぶれはてしわれなりしかど、あたいなきすぎこしかたにはあらじとおもう」(八木重吉詩集「春の水」から)。八木重吉は英語教師をしていましたが、結核にかかり29歳で亡くなります。苦労の多い生涯でした。代々木上原教会の村上伸牧師はこの詩を解説します「キリストが復活した。彼の命が私のなかに受け継がれる。キリストが私の内によみがえる。そうすると、私の中でよみがえりに値するもの、こころざしや愛や祈りはすべての命を吹き返して行く。どんなに不幸で惨めな過去を持っていたとしても、私はもうその過去に縛られることはない。私の中によみがえられたキリストと共に先に向かっていく」(代々木上原教会2008.3.23説教から)。病気と貧困の中にあった八木重吉は29年の生涯を実り多く生きることが出来ました。
・多くの人々は、「キリスト・イエスは神の子だから復活したのであって、それは人間である自分たちとは何の関係もない出来事だ」と理解します。しかし、私たちに何の関係もない出来事であれば、私たちは何故今日、ここに集められたのか。人々は霊魂不滅の考え方から、霊は生きても人の肉体は滅びると考えていました。だから「死者の体が生き返る」ということが起こるはずはないと考えます。私たちが復活信仰を「死人が息を吹き返す」という意味に理解した時、それは魔術になります。聖書が語ることは、「死んだイエスが今ここに臨在しておられる」との信仰です。だからこそ、今日ここに集まった。
・イエスは語られました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25-26)です。この「命」は「ビオス」ではなく、「ゾーエー」です。ビオスとは生物学的命、ゾーエーは人格的な命です。聖書はゾーエー、人格的な命のよみがえりを問題にしているのです。レイモンド・ブラウンはヨハネ11:25-26を次のように翻訳します「私を信じる者は(霊的に)生きるであろう。もし彼が(身体的に)死んだとしても。そして(霊的に)生き、私を信じる者は、(霊的に)決して死ぬことはない」。
・イエスを裏切った弟子たちは復活の命をいただいて、新しく立ち上がりました。絶望して部屋に閉じこもっていた弟子たちを動かしたものは、イエスが聖霊として、「共におられる」ことを知ったからです。復活のイエスに励まされて、彼らは喜んで死んで行きました。彼らは、自分の命を投げ出しても悔いないような出来事を体験したのです。聖霊なるイエスとの出会いを経験した者は新しく変えられます。今日、私たちは一人の兄弟のバプテスマ式を執り行います。新しくキリストを救い主と信じた兄弟が私たちに与えられたことは、神が生きて働いておられるしるしです。イースターにふさわしい行事です。今年もまた、このような喜ばしい行事で、主の復活を祝うことが出来ることを感謝します。