江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年3月24日礼拝説教(ヨハネ19:17-28、君もそこいたのか)

投稿日:2024年3月23日 更新日:

 

1、罪なきイエスを裁く罪

 

・受難日を前にヨハネ福音書を読んでいます。イエスはピラトの法廷で死刑の判決を受け、刑場まで連れて行かれました。「イエスは、自ら十字架を背負い、『されこうべの場所』、ヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」(19:17)。十字架刑の宣告をうけた罪人は自分が架けられる十字架を背負わされ、刑場へ向かうことになっていました。十字架は縦木と横木を組み合わせたもので、相当な重さです。刑場へ向かう道は「ウィア・ドロロサ(悲しみの道)」と呼ばれる、でこぼこの悪路でした。そこを処刑される人が十字架を背負わされ、道の両側には物見高い群衆が押し寄せ、その衆人環視の中で、十字架を背負わされて刑場へ向かいます。ヨハネは記します「(されこうべの場所で)彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒に他の二人をも、イエスを真ん中にして、両側に、十字架につけた。」(19: 18)。「されこうべ」という名称は、ヘブライ語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」です。先ほど唱和しました「カルバリ山の十字架につきて」(新生讃美歌232番)はラテン語の歌詞です。

・十字架刑はローマが政治犯に適用する極刑で、両手両足を釘づけにして地面に立てます。そのため、釘づけにされた両の手と足に全体重がかかり、手と足は引き裂けて、焼けるような痛みが起こり、貧血と痛みによる気絶と蘇生を繰り返し、一日ないし長くて数日間、生死の間をさまよい、力つきて死を迎える刑罰でした。十字架刑は人間の耐えうる限りの極限の苦痛と、辱めをあたえる刑罰であり、それはまた時の権力に背いた者はこうなるという見せしめの刑でもありました。

 

2、不条理なイエスの死

 

・ヨハネは十字架につけられたイエスの衣服を、兵士たちが分け合い、下着については「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めようと話しあった」と記述します(19:24)。ヨハネはそれを「彼らは私の服を分け合い、私の衣服のことでくじを引いたという聖書の言葉が実現するためであった」(19:24)と記します。「私の衣服のことでくじを引く」、詩編22:19の引用です(詩篇22:17-19『犬どもが私を取り囲み、さいなむ者が群がって私を囲み、獅子のように私の手足を砕く。骨が数えられる程になった私の体を、彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」』)。ヨハネが、兵士たちがイエスの服を分け合ったことをあえて書いたのは、旧約の預言が成就したことを伝えるためです。

・預言が成就したことは、十字架が神の意志によって起こったことを意味します。イエスは、世を愛し、人を愛し、福音を伝え、癒しの業を行い、人々を救いました。それなのに、最後には身に着けた下着まで奪われ、全てのものを与えたすえに、十字架の辱めをうけ、命まで奪われました。しかしそれは神の御心だったとヨハネは詩篇を引用します。ヨハネが私たちに伝えますのは、「イエスは王であった」、「しかし十字架につけられた王であった」ということです。キリスト教は4世紀にローマの国教になった後、体制宗教になり、大聖堂やパイプオルガンが備えられ、栄光のキリストが讃美されていきますが、これは聖書の語るキリストではありません。聖書の語るキリストは、「一粒の麦として死んで行かれた」(ヨハネ12:24)、十字架で苦しむ方です。

・アウグステイヌスは十字架を背負って歩むイエスを次のように描写します。「何という偉大な光景か。だが不敬虔な者が見れば大いなる戯れである。何と言う偉大な秘儀か。だが不敬虔な者が見れば、大いなる恥辱である。何と言う信仰の出来事か。だが不敬虔な者が見れば、王杖の代わりに十字架を運ぶ道化である」。肉の目で見るか、信仰の目で見るかによって、イエスの姿はまるで異なってきます。

・私たちはバプテスマを受けることを通して、イエスの死に従い、復活の喜びにあずかる者となりました。私たちはバプテスマによってイエス・キリストと結ばれるのです。今日の招詞にローマ6:5-6を選びました。「もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。イエスの死と復活は、今ここに居る私たちの救いにつながっています。ですから、後代の人々はイエスが十字架に架けられたこの金曜日を、「Good Friday」と名付けました。イエスの死によって、私たちが罪を赦された、その感謝を込めての命名です。

 

3.君もそこにいたのか

 

・十字架上のイエスの最後を見守ったのは、女性たちでした。ヨハネは「イエスが母マリアを愛する弟子に託した」と記します。(ヨハネ19:25‐27「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる、愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから、弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、その弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」)。イエスの死後、初代教会が生まれ、やがて始まったユダヤ戦争の嵐の中で、ヨハネ福音書の著者「愛弟子」は、イエスの母マリアを連れて危険なエルサレムを去り、安全な場所に逃れたとされています。古代の伝承では避難先をエフェソとしています。エフェソには母マリアが晩年を過ごしたと伝えられる家を記念する小さい教会堂があります。この「愛弟子」がその証しの働きを通して形成した、信徒の共同体がエフェソにあり、その共同体が生み出した福音書が「ヨハネ福音書」です。

・このイエスの十字架死を記念して多くの賛美歌が書かれました。今日の応答讃美歌である新聖歌113番「君もそこにいたのか」(旧聖歌400番)もその一つです。イエスの十字架死が私たちにどのような意味を持つのかを歌ったもので、黒人霊歌「Were You There」を中田羽後が訳詞したものです。十字架の下には大勢の人々がいました。イエスを十字架につけた祭司長や律法学者、イエスを処刑するために集められたローマ軍の兵士、イエスの十字架に心を引き裂かれている婦人たち。その時、私たちはどこにいたのでしょうか。2000年前に、遠いユダヤの地で、ナザレのイエスと呼ばれる男が処刑された、それは私たちとは何の関係もない出来事だと考えるならば、私たちは今日、ここにいない。しかし私たちはここにいます。この物語は私たちの出来事なのです。

・讃美歌は歌います「君もそこいたのか、主が十字架につく時、ああ何だか心が震える、震える、震える、君もそこいたのか」、「君も聞いていたのか、釘を打ち込む音を、ああ、何だか心が震える、震える、震える、君も聞いていたのか」、「君も眺めていたのか、血潮が流れるのを、ああ何だか心が震える、震える、震える、君も眺めていたのか」。「君もそこにいたのか」という讃美歌は、さらに続きます。「君も墓にいったのか、主をば葬るために。ああ、何だか心が、ふるえる、君も墓にいったのか」、聖歌は5番までですが、オリジナルでは6番まであります「君もそこにいたのか、主がよみがえられた時、ああ何だか心が、ふるえる、君もそこにいたのか」。十字架の出来事は復活の出来事に連続します。十字架はおぞましい、残酷な刑ですが、復活の光の下では、十字架は救いの出来事に変えられていきます。

・イエスの十字架刑の時、弟子たちはそこにいず、ただ婦人たちが立ち会っていました。弟子たちは官憲に捕えられるのが怖くて逃げていたのです。彼らはまた、十字架上で無力に死ぬ人間が救い主であると信じることが出来ず、イエスを捨てました。パウロが語るように、「十字架の言葉はユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの」(第一コリント1:23)です。しかし、その弟子たちがやがて「十字架で死なれたイエスこそ、私たちの救い主である」と宣教を始めます。何が起こったのかでしょうか。イエスが復活し、その復活のイエスに出会うことにより、弟子たちが変えられていったとしか思えません。イエスの十字架から100年もしないうちに、ローマ帝国の到る所に、イエスを救い主とするキリスト教会が立てられていきました。何故ナザレのイエスの死が、人々の魂を揺さぶったのでしょうか。十字架刑とそれに続く復活こそが、多くの人々を「信じない者から信じる者に変えていった」(20:27)のです。

・「きみもそこにいたのか」と問われ、私たちが「はい」と答える時、イエスの出来事が私たちの出来事になります。ガザで多くの子供たちがイスラエル軍の砲火によって殺されている時、「きみもそこにいたのか」と問われ、私たちは何と答えるのでしょうか。「私はそこにいなかった、しかしTVのニュース番組で見て知っていた」。イエスは問われます「ガザの虐殺を知った後、君はどのような行動をとったのか」。私たちは何と答えるのでしょうか。

・旧約聖書コヘレト書は現代の私たちに響く多くの言葉を語ります。コヘレト4章は、この世に悪があること、そのために多くの人が苦しんでいる事実を見つめます。コヘレトは語ります「私は改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない」(コヘレト4:1)。コヘレトは続けて語ります「死んだ人の方が幸いだ。彼らはもうこれ以上、悪を見る必要はないのだから」(コヘレト4:2)、更には「いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(コヘレト4:3)と語ります。世の不条理に対するコヘレトの嘆きは私たちの胸を撃ちます。

・アウシュビッツで250万人のユダヤ人が殺された時、誰も助ける人はいませんでした。1994年ルワンダで100万人以上のツチ族が大量殺戮された時も、駐留していた国連平和維持部隊は騒乱に介入せず、虐殺を見殺しにしました。現在のシリアやガザで起きている大量殺戮にも誰も介入しません。「神はどこだ。どこにおられるのだ」と叫ばざるを得ない現実があります。コヘレトはその現実の中で嘆息します。しかし彼は何も行動しません。私たちも同じです。批判はするが、行動しない。「何をしても同じだ、空しい」というニヒリズムが、私たちを支配しています。

・十字架のイエスの問いかけに私たちは反論するでしょう「私たちには何の力もありません。現在の生活を守るだけで精一杯なのです。何ができると言うのですか」。イエスは何も言わず、ガザに行って死んだ人を葬られ、ルワンダで暴行されて亡くなった人々の墓の前で涙を流されます。私たちは、十字架の物語を自分には関係のないこととして受け止めがちです。しかし、この歌はその私たちに「あなたたちは、主の受難に立ち合いながら傍観していたのではないか」という罪の告白を促します。コヘレトは傍観者でした。イエスを知らなかったためです。しかし私たちはイエスが私たちのために命を捧げられたことを知っています。だからもう、傍観者であり続けることはできない。

・この歌は、「キリストの十字架の贖いを前にして、傍観者であることをやめよう」と呼びかけます。私たちもまたイエスの十字架死に立ち会った。その時は何もしないで、出来事を眺めているばかりだった。しかし、人生における悲しみや苦しみの中で、復活のイエスに出会った。だから、今日ここにいます。もう傍観者であることをやめよう。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)、イエスに従う者として生きよう。その時、私たちの人生は意味あるものに変えられていくのです。

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