江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年9月3日説教(創世記8:1-22、洪水の終わり、祝福の始まり)

投稿日:2023年9月2日 更新日:

 

1.洪水の始まりと水の氾濫

 

・ノアの洪水の三回目です。創世記は6章から9章が洪水物語であり、6章で洪水の始まりを、7章で洪水の出来事を、8章で洪水の終わりを描きます。私たちはこれまでの学びの中で、ノアが作れと命じられた「箱舟」がエルサレム神殿と全く同じ大きさであることを学びました。著者はそのことの中に救いを見出しています。また洪水物語を最終的に編集したのは、異国の地に捕囚となっている祭司たちであることを学びました。記者は「洪水という惨事の中で人を滅ぼし尽さず、箱舟の8人を残して再創造を赦してくださった神の行為」に、「捕囚の自分たちもやがて故国に帰還できるとの希望」を書き記しています。

・今日は8章を中心に聖書から聞いていきます。最初に洪水の経緯を振り返ります。7章4節に洪水が予告されます「七日の後、私は四十日四十夜地上に雨を降らせ、私が造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした」(7:4-5)。そして洪水が始まります「ノアが六百歳の時、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った・・・七日が過ぎて、洪水が地上に起こった・・・この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」(7:6-11)。

・雨は降り続き、地には水が満ち、箱舟は水の上を漂流します。創世記は記します「洪水は四十日間地上を覆った。水は次第に増して箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり、箱舟は水の面を漂った。水はますます勢いを加えて地上にみなぎり、およそ天の下にある高い山はすべて覆われた」(7:17-20)。その結果、「地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた」(7:21)。「地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」(7:23)。

・洪水も終わりの時を迎えます。そこからが今日の主題箇所8章です。創世記は「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」と記します(8:1)。水が減るとノアは最初に烏を、次に鳩を放って、水の減り具合を確かめます。「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した」(8:6-9)。さらに7日待って鳩を放すと、鳩はオリーブの木の葉をくわえて戻りました(8:11)。水が引き始めて木の枝が現れて来たのです。さらに7日後に鳩を放つともう戻らなかった、水が完全に引いたのです(8:12-14)。この記事から「オリーブの木の葉をくわえる鳩」が平和の象徴になって行きます。

・8章後半には「箱舟を出る」という言葉が繰り返されます(8:16-19)。創世記7章では、「箱舟に入る」という言葉が繰り返されました(7:7、7:13、7:15)。箱舟はエルサレム神殿と同じ大きさであり、神殿(神の臨在)が象徴されています。箱舟に入るとは神殿に入る、非日常に身を置くことです。箱舟から出るとは神殿から出る、日常世界に戻ることです。私たち信仰者は週の7日目に神殿(教会)に入り、世の洪水から身を清めて安らぎ、礼拝が終われば神殿(教会)から出て、混沌の世に戻ります。7日目ごとの主日礼拝は私たちには清めの時、そして安息の時です。

 

2.洪水の終わり

 

・洪水が終わり、地も乾き、ノアと家族は箱舟を出ます。下船したノアが最初に行ったのは礼拝でした。「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた」(8:20)。自分たちの罪を悔い、命を残してくださった神に感謝するために礼拝が捧げられ、焼き尽くす献げものが捧げられました。この焼き尽くす献げもの=ギリシア語ホロー・コスト(全部を・焼く)は、やがて罪を贖う殉教者の意味となり、20世紀のユダヤ人大量殺戮がホローコストと呼ばれました。カトリック信徒・永井隆は長崎の浦上に落ちた原爆を、「神の摂理による大いなる燔祭(ホローコスト)」と呼びました(長崎の鐘)。日本の平和は沖縄・広島・長崎のホローコストを通して贖われたと永井は理解しました。ホローコストからの回復、ノアの洪水物語は私たちの現実の物語なのです。

・焼き尽くす捧げものの「宥めの香りをかいだ」神は、次のように言われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私はこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない」。(8:21-22)。「人が心に思うことは、幼い時から悪い」、人間の悪自体は変わらない。しかしそうであっても「私はそれを受け入れる」との神の宣言がここにあります。

・人は罪を重ねますが、神は人を滅ぼし尽くすことはされない。バビロン捕囚の民たちは洪水物語の中に神の声を聞きました。捕囚地の預言者第二イザヤは、バビロン捕囚からの解放の預言をノアの洪水を通して聞きます。「これは、私にとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないとあのとき誓い、今また私は誓う。再びあなたを怒り、責めることはないと」(イザヤ54:9)。捕囚の民が失意から立ち上がり祖国再建を果たしたのは、預言者を通して語られる神の言葉に励まされたからです。

・洪水の後で変化したのは人間ではなく、神でした。神は人間の悪を耐え忍び、受け入れられたと記事は語ります。イエスが語られた神も、悪人にさえ恵みを下さる神です。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。人は罪を重ねますが、神は滅ぼし尽くすことはされません。必ず残りの者を残され、彼らから新しい共同体が形成されます。そのことに捕囚の民は希望を見ています。創世記8章にあるのは、「神は私たちを赦してくださった」との捕囚の民の喜びの声です。洪水の後で変化したのは人間ではなく、神でした。神は「人間の悪を耐え忍び、受け入れられた」と創世記記者は語ります。「私たちは神の赦しの中」に現在があるのです。

 

3.人間を罪のままに受け入れられる神

 

・今日の招詞として第一ペテロ3:20-21を選びました。次のような言葉です「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」。洪水の後、神は人を再び滅ぼすことはしないと約束されました。どのような苦難も有限なものになりました。バビロンの地で絶望の中に沈む捕囚の民は、ノアに語られた神の言葉に、自分たちの生存の希望を見出していきました。洪水物語は新約聖書記者にも大きな影響を与えました。ペテロは洪水の意味をバプテスマの中に見ています。私たちはバプテスマによって全身を水の中に葬られ、その水から上がって復活の命に生きます。「人は救われるために一度死なねばならない。洪水を通してこそ救いがある」とペテロは語ります。

・「ノアの洪水」の後、神は「もう人を滅ぼすことはしない」と誓われました。バビロン捕囚は裁きではあっても天罰ではありませんでした。「神は人を救うために裁かれる」のです。捕囚期の預言者エレミヤは語りました「剣を免れた者は荒れ野で恵みを受ける」(31:2)、荒野(捕囚)は単なる苦難の場ではなく、人がそれを受けいれる時、恵みの場になります。古代に活躍した民族のほとんどは死に絶えましたが、ユダヤ民族だけは生き残りました。バビロン捕囚を経験し、悔い改め、その結果「神の言葉を聞きながら歩む」民として再生したからです。同じように、3.11の東日本大洪水も裁きではあっても、天罰ではありません。3.11の大洪水を神が与えられた裁きとして受け止めた時、新しい時代を開くものになります。

・今回の震災による最大の衝撃は、大洪水による福島での原発事故でした。私たちは事故を通して、首都圏の電力が域外の東北で作られていることを知りました。福島や新潟に原発を建設したのは、人口密集地では事故時の被害が大きく、過疎地にしか原発立地が認められないからです。事故の危険性を福島や新潟に押し付けることを通して首都圏の繁栄があった。これは正義ではありません。東北地方は首都圏住民に電力を供給するための原子力発電所を引き受けてきました。それは原発交付金や、原発関連企業の雇用と引換に原発のリスクを背負わされたものでした。そのリスクは想定を超えるもので、そのために東北の地は汚されました。現在でも散らされた人の一部の人しか故郷に戻っていません。

・このような現実の中で、私たちは「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(アモス5:24)という神の声をどのように聞くのでしょうか。原発の危険性を知った上でなお原発事業を行うことは不誠実です。さらに日本に原発が導入された契機は核爆弾に転用しうるプルトニウム生産のためであったことも知りました。被爆国としての日本が取るべき節度を破壊する行為です。各地で原発の再稼働が進められていますが、洪水や大災害から何の教訓も読み取らないのは怠慢です。

・東北大震災はマグニチュード9.0、震度7の巨大地震でしたが、私たちが驚いたのは、震源から遠く離れた千葉県浦安の埋め立て地域で大規模液状化現象が起こり、多くの家が傾き、あちこちの道路が陥没したことです。今、江東区に建てられている高層マンション群は54階建、55階建で(高さ180メートル前後)、都心に近いことから人気が出ています。しかし、豊洲や東雲はかつて海だった場所を埋め立てした場所であり、想定を超える巨大地震が発生すれば液状化や津波等により大きな被害が出る可能性が懸念されています。「深い地盤まで杭を打ち込み、建物は耐震・免震構造等の最先端技術により支えられているから大丈夫だ」と建設会社は語りますが、東京は震度7以上の地震を経験したことはなく(関東大震災はマグニチュード7.9、震度6強)、想定外の大地震を前提にしていません。

・先週紹介した旧約学者の並木浩一氏は「ヨブ記からの問いかけ」中で語ります「ヨブ記の中で神が言及する地球物理的な自然は・・・固有の法則を持っている。自然も自律的であり、人間の願望には従わない。気象がそれを象徴的に語る・・・今回の東日本を襲った大地震と津波の発生は北米大陸プレートが過去に相当の回数行って来た自然界のリズムによる。この自然界のリズムに十分な配慮を払った生活形態を築かなければ、人々は再び悲惨な状況に追い込まれるだろう。ヨブ記は今日、人間に固有な責任の確認と外部世界の独自性の承認とを我々に問うている」。「自然界のリズムに十分な配慮を払った生活形態を築かなければ、人々は再び悲惨な状況に追い込まれるだろう」、大事な言葉だと思います。

・神は「もう人を滅ぼすことはしない」と誓われました。神は今回の洪水を通して、私たちが新しい世界を築くことを待っておられます。イスラエルの民はバビロン捕囚という裁きを通して、創世記という信仰の書を書き上げました。戦後の日本は沖縄・広島・長崎のホローコストを経て、戦後の平和国家へ転換しました。私たちは先の戦争で多大な犠牲を払って、平和憲法をいただきました。この憲法は、イザヤが述べた終末預言、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」を実際の法文にまで高めたものです。日本国憲法は神が与えてくれた日本国民への贈り物です。その憲法を与えてくれた神は、大震災後の新しい世界が、「正義と公平」に満ち溢れることを期待されておられます。それができるのは、神のみ旨を求めていく教会だけなのです。そこに教会の役割があります。どうすれば「洪水が恵みになりうるのか」を考え、求め、告げ知らせる役割が私たちにあることを、ノアの物語は示します。

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