江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年9月10日説教(創世記9:1-17、約束の虹)

投稿日:2023年9月9日 更新日:

 

1.血を流すな

 

・創世記から御言葉を聞いています。創世記は6章から9章が洪水物語です。洪水物語は世界各地にあります。過去の大洪水の記憶が伝説となったものでしょう。創世記の洪水物語を書いたのはバビロンに捕囚となっていた祭司たちだと言われています。イスラエルは前587年にバビロニア帝国に国を滅ぼされ、住民はバビロンの地に捕囚となりました。イスラエルが幽閉されたメソポタミアには、有名なギルガメシュ叙事詩(洪水物語)が残されており、捕囚の民はその叙事詩に題材を得て、創世記の洪水物語を編集していったとされています。創世記の洪水物語は歴史上の出来事の報告というよりも、国を滅ぼされ、破局を経験した民族が、洪水伝承の中に、自分たちへの罪の裁き=国の滅亡の意味と神の救いを見出していった信仰の記録です。今日学びますのは、創世記9章、「洪水の後の祝福」です。神は洪水の後、ノアと契約を結ばれました。

・洪水によって、地上のすべての生き物は、箱舟に逃れたノアとその一族、動物たちを除いて滅ぼされました(7:23)。やがて水が引き、ノアと家族は箱舟から出て、救われた感謝を込めて礼拝を行います。その礼拝に神は応答されます「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私は、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)。神の赦しの中で新しい世界が始まり、神はノアと息子たちを祝福して言われます「産めよ、増えよ、地に満てよ」(9:1)。そこにある言葉は創世記1章の人類創造と同じ祝福であり、世界は洪水という徹底的な裁きを経て、再創造されたと創世記記者は伝えます。洪水を通じてそれまでの悪に満ちた世界は滅ぼされ、新しい世界が生まれました。

・しかし洪水は悪そのものを水に流したわけではありません。箱舟を出たノアと家族の心にも悪があります。神はその悪を許容した上で人を祝福されます。「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える』」(9:2-3)。エデンの園で最初の人間に与えられた食物は穀物と果実でした「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(1:29)。しかし今回は肉食が許されています(動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい)。肉食を許されたのは、他の動物を殺してその肉を食して生きる人間の罪を、神は受け入れて下さったとの創世記記者の理解でしょう。

・肉食とは、「動物の命」を奪う行為です。すべての動物はいつ殺されるかわからないゆえに、人の前に「恐れおののき」ます。神はその動物の肉を食べることを許されますが、「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(9:4)と命じられます。人間に与えられたのは肉であって血ではない。血は神のもの、それを確認するために動物を殺す時は必ず血抜きをして、血を神に(大地に)戻せと命じられています。このためにユダヤ人は今でも血抜きをした肉(カーシェール)以外は食べません。肉を食べても命である血は食べない。それは「肉を食する時は、生きるためにやむを得ず、他の命を殺すという感謝と恐れを覚えて食べよ」ということです。

・そして血は命であるから、「人の血を流すな」と命じられます。「また、あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(9:5-6)。「人を殺すな、人は神にかたどって造られた、人を殺すことは神に敵対することだ」と語られます。「人の血を流す者は人によって自分の血を流される」、イエスはこのことを「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言い換えられました。「殺すな」、聖書に一貫して流れる命令です。ですから聖書は本筋ではどのような戦争も肯定しません。聖戦や正しい戦争などないのです。

 

2.契約のしるしとしての虹

 

・神はノアとその家族、そしてすべての生き物と、新しい契約を結ばれました。「あなたたち、ならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。すなわち、私は雲の中に私の虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。私が地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、私は、私とあなたとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」(9:12-15)。神は「二度と人と生き物を滅ぼすことはしない」と約束され、そのしるしとして虹を置かれたと創世記記者は語ります。虹はヘブル語「ケシェト」、弓を意味します。英語のrainbowも「雨の弓」の意味です。虹を雲の中に置くとは、武器である弓を置いて、もう使わない、もう人を滅ぼさないと約束することです。これが洪水後の世界の始まりでした。

・神は人が罪を犯し続けることを承知の上で、「もう滅ぼさない」という和解の契約を立てられ、しるしとして虹を立てられました。それは人が洪水に洗われて清くなったためではなく、「人が滅びるのを見ることは悲しいからだ」と神は言われています。神が自己の正しさを放棄され、被造物がどのように罪を犯し続けても、これを受け入れると約束された。洪水物語の焦点は洪水そのものにあるのではなく、洪水の後、「もう人を滅ぼすことはしない」と言われた神の言葉に、国を滅ぼされたイスラエルの民が民族の再生の希望を見出していった点にあるのです。

・創世記は「神は人間に肉食を赦されたが、流血は固く禁じられた」と語ります。「人を殺すな、人の命は神にかたどって造られた、人を殺すことは神に敵対することだ」と創世記は語ります。しかし現実の社会では、人は洪水による再創造後も殺し合いを続けています。人間の歴史は戦争(殺し合い)の歴史です。神が武器である弓を置いて、「もう弓は使わない、もう人を滅ぼさない」と約束されたにも関わらず、人は神の約束を信じることができず、自分を守るために、武器で隣人を殺し続けています。この現実の中で私たちはノアの洪水物語を聞いています。

 

3.洪水の後で

 

・今日の招詞に創世記9:18-19を選びました。次のような言葉です「箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである」。ノアの三人の息子たちから、人類は再び増えていったと創世記は記します。創世記9章後半は洪水物語の後日談ですが、そこでは「ノアが葡萄酒を飲みすぎて酩酊し、息子たちに裸を見せ、その中でハムとその子カナンは呪われ、セム、ヤフェテは祝福された」とあります。裸は性的意味を持つゆえに、ハムは父親を冒涜するような性的行為をしたことが示唆されています。「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。ある時、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった」(9:20-23)。「ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った『カナンは呪われよ、奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ』。また言った『セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。神がヤフェトの土地を広げ、セムの天幕に住まわせ、カナンはその奴隷となれ』。」(9:24-28)。

・ノアは世の中でただ一人の正しい人と認められ、他の人々は滅ぼされ、ノアから人類が再創造されました。しかし、命が助けられた感謝の礼拝を行った後で、ノアや息子たちは再び罪を犯します。ノアが犯した罪は飲酒により節度を失くした罪です。それに対してハムが犯した罪は「父親の裸を見た」ことです。しかも呪われるのは「ハムではなく、その子カナン」です。旧約学者はこの出来事について、「エジプトを出てパレスチナに定住したイスラエル民族に対し、先住民カナン族の「農耕文化、性的なものを強調する豊穣信仰」に巻き込まれるなとの戒めが反映しています。洪水という厳しい裁きを受けたのに、人間の本性は変わらず、罪びとのままであったと創世記記者は語ります。

・捕囚となったイスラエルの民は、70年にも及んだ捕囚期を耐え抜き、やがて故郷エルサレムに戻り、神殿を再建します(紀元前521年)。しかしその後も政治的な独立は得られず、ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配下で苦しめられ、紀元70年には再建した神殿もローマにより再び破壊させられ、その後再建されることはありませんでした。その後のユダヤ人は国を失くした「流浪の民」として世界各地に散らされ、さらには各地で「キリストを殺した民」として迫害を受け、終りにはナチス・ドイツによるホロコーストによる民族大虐殺を経験します。

・第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。「なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか」、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出て来ました。その時、ユダヤ教のラビ、エマニュエル・レヴィナスは、あなたたちの信仰は「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語りました。「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できる者』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止める者は宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」(レヴィナス「困難な自由」内田樹訳)。レヴィナス自身も両親や家族をホロコーストで亡くしています。

・成人の信仰とは何でしょうか。1943年にワルシャワのゲットーでドイツ軍に殺されたヨセル・ラコーバーは死を前に手記を書きました「神は彼の顔を世界から隠した。彼は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された。しかし私は神を信じる」(Yosl Rakover Talks to God by Zvi Kolitz)。「神は私たちを見捨てた。しかし私は神を信じる」、これこそが成人の信仰です。この成人の信仰が、イエスが最後の晩餐の時に語られた言葉の中にもあります。イエスは語られました「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14:25)。死んでもまた会えるではないか、その時はお互いに「喜びのぶどう酒を飲もう」とイエスは約束されました。

・イエスは十字架上で「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。神はイエスを棄てられなかった。だから神は人に捨てられた私をも起こして下さると確信します。人生はいつも思い通りに行くわけではありません。神の約束を疑わずにいられないほどの失望や悲しみが襲ってくることもあります。その中で信じ続ける信仰こそ、成人の信仰です。フランスのカトリック作家ベルナノスは語りました「信仰とは90%の疑いと10%の希望だ」。だから出口の見えない困難な状況の中でも、私たちは静かに神の声を待ち望みます。「死を超えた命を信じる」とはそういうことです。だから私たちは、「私はあなたと共にいる」という神の約束を信じます。そして守ってくださる神に感謝し、礼拝します。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.