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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年8月27日説教(創世記7:1-24、ノアの洪水、神の赦しの中で生きる)

投稿日:2023年8月26日 更新日:

 

1.洪水の始まりと水の氾濫

 

・ノアの洪水の二回目です。創世記は6章から9章が洪水物語であり、6章で洪水の始まりを、7章で洪水の出来事を、8章で洪水の終わりを描きます。前回私たちは、「晴れた日に箱舟を造る」ノアに焦点を当てて、終末(死)を意識して生きることの大切さを学びました。今日は7章を中心にメッセージを聞いていきます。7章4節から洪水の発生が予告されます「七日の後、私は四十日四十夜地上に雨を降らせ、私が造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした」(7:4-5)。この記事では、雨は四十日四十夜降ります。40日は聖書では試練の時を示す数です(モーセは40日シナイ山で祈り十戒を与えられ=出エジプト24:18、イエスは40日砂漠でサタンの試練に会う=マタイ4:1-3)。他方、7章24節では「水は150日の間、地上で勢いを失わなかった」とあります。異なる洪水記述がここにあります。

・創世記7章は二つの資料が用いられています。基本となる原初資料(ヤハウェ資料)では洪水は120日(40日の降雨、40日の洪水、40日の減水)と地域的です。他方、補筆された資料(祭司資料)では洪水は364日(150日の降雨、150日の洪水、64日の減水)で大掛かりです。創世記では元々の伝承(原初資料)に祭司たちが加筆する形で洪水物語が形成されているのです。留意すべきは11節「深淵の源が裂け、天の窓が開かれた」という記述です。この部分は祭司による補筆で、祭司たちは洪水によって創造の秩序が失われたと理解しています。自分たちの罪の結果、このような秩序の崩壊が起きたのだと補筆資料は語ります。

・洪水が始まります「ノアが六百歳の時、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、二つずつ箱舟のノアのもとに来た。それは神がノアに命じられた通りに、雄と雌であった。七日が過ぎて、洪水が地上に起こった」(7:6-10)。雨は降り続き、地には水が満ち、箱舟は水の上を漂流します。「洪水は四十日間地上を覆った。水は次第に増して箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり、箱舟は水の面を漂った。水はますます勢いを加えて地上にみなぎり、およそ天の下にある高い山はすべて覆われた。水は勢いを増して更にその上十五アンマに達し、山々を覆った」(7:17-20)。洪水により、大地の生き物はすべて息絶えます(7:21-24)。

・しかし、洪水も終わりの時を迎えます。創世記は「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」と記します(8:1)。先に話しましたように、7章と8章には二つの異なった記述があります。元来の伝承を基礎にしたヤハウェ資料に対する加筆として祭司資料が書かれており、祭司たちは洪水の中に完膚なきまでの神の審き(国の滅亡、70年にも及ぶバビロン捕囚)を見ているからです。故に祭司資料では洪水は1年間の長きにわたって続きます。祭司資料は記します「深淵の源と天の窓が閉じられたので、天からの雨は降りやみ、水は地上からひいて行った。百五十日の後には水が減って、第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂が現れた」(8:2-5)。アララト山(現在のアルメニア地方)は5千メートルを超える当時世界一高いとされた山です。

・洪水が終わりに近づいたのです。捕囚時の預言者エレミヤは語ります「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。私は見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。私は見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。私は見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた。まことに、主はこう言われる。『大地はすべて荒れ果てる。しかし、私は滅ぼし尽くしはしない』」(エレミヤ4:23-27)。「私は滅ぼし尽くしはしない」、ここに救済の希望があります。洪水物語が示しますことは、「人は罪を重ねる。しかし神は滅ぼし尽しはしない。どのような苦難も有限になった」という福音です。

 

2.洪水の終わり

 

・水が減るとノアは最初に烏を、次に鳩を放って、水の減り具合を確かめます(8:6-9)。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来ました。さらに7日待って鳩を放すとオリーブの木の葉をくわえて戻りました(8:11)。「鳩とオリーブ」、鳩がオリーブの枝を嘴にくわえてきたことから、この姿が平和のシンボルとなり 「オリーブの枝を差し出す」ことが和解のしるしとなっていきます(鳩が平和のシンボルになったのは1949年のパリ国際会議で、パブロ・ピカソがデザインしたポスターが作られ、世界中に浸透したとされています。ピカソは故郷ゲルニカの大空爆を体験しています)。さらに7日後に鳩を放つともう戻らなかった、水が引いたのです(8:12-14)。

・洪水が終わり、地も乾き、ノアと家族は箱舟を出ます(8:15-19)。下船したノアが最初に行ったのは礼拝でした。彼は祭壇を築き、清い家畜と鳥を、焼き尽くす献げものとして捧げます(8:20)。その焼き尽くす捧げものの「宥めの香りをかいだ」神は、次のように言われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私はこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない」。(8:21-22)。「人が心に思うことは、幼い時から悪い」、人間の悪はなくならない。しかしそうであっても「私は人間を受け入れる」との神の宣言がここにあります。

・人は罪を重ねますが、神は滅ぼし尽くすことはされません。必ず残りの者を残され、彼らから新しい共同体が形成されます。そのことに捕囚の民は希望を見ています。捕囚地の預言者と言われる第二イザヤは、バビロン捕囚からの解放をノアの洪水を通して聞いています「これは、私にとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないとあの時誓い、今また私は誓う。再びあなたを怒り、責めることはないと」(イザヤ54:9)。「神は私たちを許してくださった」、洪水の後で変化したのは人間ではなく、神でした。神は「人間の悪を耐え忍び、受け入れられた」と創世記は語ります。神は人間の滅ぼしを決意されたが、洪水の後では、限りない忍耐と寛容をもって人間に関わろうとされる。「どのような苦難も必ず終りがある」。この赦しの中に私たちは今を生きています。

 

3.人間を罪のままに受け入れられる神

 

・今日の招詞にマタイ5:44-45を選びました。次のような言葉です「しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。洪水後、神は語られました「人が心に思うことは、幼い時から悪い」。しかし「この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」。人は神の赦しの中で生きています、あるいは生かされています。その神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方です。

・「ノアの洪水」の記事は、私たちには「東日本大震災」の出来事と重なります。巨大な地震エネルギ-は、東北沿岸部を呑みこむ大津波(大洪水)を引き起こし、地上の家や自動車をまるで籾殻のようにもてあそんで、多くの人命を奪いました。私たちはその映像を見て大きな衝撃を受けました。洪水を目撃したノアとノアの家族も、大きな衝撃をうけたはずです。ノアの洪水は、東日本大震災の津波とは比べ物にならないほどの大規模の洪水でした「水は次第に増して箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。水は勢力を増し、地の上にみなぎり、箱舟は水の面を漂った。およそ天の下にある高い山はすべて覆われた」(7:18-19)。東日本大震災の津波は最大39.4メートルに達しました。ノアの洪水はさらに高く、5千メートルを超えるアララト山まで覆いました。

・東日本大震災の死者は2万人を超えましたが、ノアの洪水では、ノアとその家族、選ばれた動物以外、息あるものはすべて絶えてしまいました。洪水により、ノアの時代まで続いた世界は一旦、終止しました。先の震災の時、当時の石原東京都知事が「震災は現代社会の我欲への天罰だ」と発言して問題になりました。震災天罰論は1923年(大正12年)の関東大震災時にも内村鑑三により発言されています。天罰論が出てくるのは、天罰に結びつく罪責感を人々が持っていたためです。しかし、私たちは「天罰」と「神の裁き」を区別する必要があります。ノアの洪水は神の審判ですが天罰ではありません。聖書では、一貫して、「神は救うために裁かれる」と主張します。

・神は「地上に悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6:5-6)。神は苦悩と忍耐を持って、被造物が悔い改めるのを待っておられた、しかしそうはならなかった、故に一旦滅ぼすことを決意された。しかし、悪に満ちた人間の中でノアだけが神に従う者であることを見出され、ノアとその家族を残されました。洪水は滅ぼしではなく、より良き未来のための再創造だったのです。洪水の後、神は言われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい・・・生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)。

・神は「もう人を滅ぼすことはしない」と誓われました。3.11の洪水もまた裁きではあっても、天罰ではありません。バビロン捕囚も天罰ではありませんでした。捕囚期の預言者エレミヤは語りました「剣を免れた者は荒れ野で恵みを受ける」(31:2)、荒野(捕囚)は単なる苦難の場ではなく、人がそれを受けいれる時、恵みの場になるという意味です。古代に活躍した民族のほとんどは死に絶えましたが、その中でユダヤ民族だけは生き残りました。捕囚を経験し、悔い改め、その結果「神の言葉を聞きながら歩む」民として再生したからです。ユダヤ民族を今日でも生かし続けているのはバビロン捕囚の経験です。3.11の大洪水も神が与えられた裁きとして受け止めた時、新しい時代を開くものになります。私たちは今回の洪水を通して、過去の過ちを知り、悔い改める必要があります。

・今回の震災による最大の衝撃は、福島での原発事故でした。私たちは事故を通して、首都圏の電力が域外の東北で作られていることを知りました。福島や新潟に原発を建設したのは、人口密集地では事故時の被害が大きく、過疎地にしか原発立地が認められないからです(原子炉立地審査指針)。つまり事故の危険性を福島や新潟に押し付けることを通して首都圏の繁栄があったとすれば、これは正義ではありません。また今回の事故を通して核廃棄物を現代の技術では無害化できないことを改めて知りました。

・震災後の日本の教会で、ヨブ記がもう一度読み直されています。ヨブ記は「罪もないのになぜ私に苦難をお与えになるのか」と叫んだヨブを通して、「世界の不条理」を正面から問う書です。旧約学者の並木浩一氏は「ヨブ記からの問いかけ」という短文の中で語ります「ヨブ記の中で神が言及する地球物理的な自然は・・・固有の法則を持っている。自然も自律的であり、人間の願望には従わない。気象がそれを象徴的に語る・・・今回の東日本を襲った大地震と津波の発生は北米大陸プレートが過去に相当の回数行って来た自然界のリズムによる。このリズムに十分な配慮を払った生活形態を築かなければ、人々は再び悲惨な状況に追い込まれるだろう。ヨブ記は今日、人間に固有な責任の確認と外部世界の独自性の承認とを我々に問うている」。地震国日本では原発を発電の中心にするのは地政学的に困難なのです。

・原発問題を教会が語ることは難しさがあります。それでも教会は「正義の問題」として、このことを語るべきだと思います。イスラエルの民はバビロン捕囚という裁きを通して、創世記という信仰の書を書き上げました。戦前の軍時国家から戦後の平和国家への転換は、沖縄・広島・長崎というホローコストの犠牲を払って為されました。神は私たちに洪水後の新しい世界を、新しい創造として、期待されておられると思います。その神のみ旨を求めていく責任が教会に、また私たち一人一人にもあります。どうすれば「洪水が恵みになりうるのか」、ノアの物語はそのことを私たちに求めます。

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