江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年8月13日説教(創世記4:17-26、カインの末裔からセトへ、平和を求めて)

投稿日:2023年8月12日 更新日:

 

1.弟を殺したカインの罪

 

・本日は平和礼拝の時です。創世記4章を手掛かりに平和の意味を探っていきます。創世記4章の前半では、カインとアベルが争い、兄カインが弟アベルを殺した記事を読みました。アダムトエバの兄息子カインは土を耕す者(農耕者)になり、弟息子アベルは羊を飼う者(牧羊者)となりました。収穫の時が来て、カインは土の実りを、アベルは羊の初子を献げ物として持ってきました。ところが、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(4:4-5)と創世記は記します。

・物語は「神が何故アベルの捧げものには目を止め、カインの捧げものは顧みられなかったのか」について、何も語りません。「神の思いは人間の理解を超える」、「人は全てを知ることができない」、それを「神が不公平をされるわけはない。カインの捧げ物が受け入れられなかったのはカインが悪いからだ」という人間の考えで合理化してはいけない。世の中には理由のつかない不条理や不公平があるという現実があります。ある人は健康に生まれ、別の人は病弱に生まれ、病弱故に人生の選択肢が制限されます。人生は不公平で不条理です。では私たちが、この不公平、不条理に直面した時、どうするのか。カインのように怒って相手を殺すのか、あるいはあきらめるのか、さらには神に異議申し立てをするのか、創世記記者は「あなたはどうするのか」と問いかけます。アベルは善人でカインは悪人だったと決めつけてしまうと、この大事な問いかけが失われ、物語が私たちと無縁なものになります。

・創世記は記します「カインは激しく怒って顔を伏せた」(4:5)。カインは不当としか思えない神の不条理に怒り、顔を伏せます。彼の怒りは神の選びの不公平に対する怒りです。主はカインに問われます「どうして怒るのか、どうして顔を伏せるのか」(4:6)。神はカインの応答を待たれます。神への怒りであれば神に問えばよい。しかし、カインは何も言わず「顔を伏せた」ままです。そのことによって、神に向くべき怒りが弟アベルに向かい、カインは弟を野に誘い、殺しました。主はカインに問われます「お前の弟アベルはどこにいるのか」(4:9)。カインの両親アダムとエバは罪を犯した後、神から身を隠し、「あなたはどこにいるのか」と問われました(3:9)。今、子のカインが主から問われます「あなたの兄弟はどこにいるのか」、あなたは誰を隣人とするのか、誰に責任を持つのかが問われています。

・神はカインに問われます「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」(4:10)。血が叫ぶ、アベルの血が大地に流れ、カインを告発します。妬みは怒りとなり、怒りは人を死に導きました。カインは自分がないがしろにされたと怒りました。この怒り、自分は不当に扱われているとの怒りは、私たちも経験する怒りです。そして、怒りは神の前に持ち出さない時、その怒りは人を殺人にさえ追い込みます。私たちもカインと同じ罪、怒りという暗黒を内に秘めています。私たちもカインの末裔なのです。

 

2.罪を犯した者を捨てられない神

 

・主はカインに言われました「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(4:11-12)。カインは罪の宣告を通して、自分の犯した罪の重さを知り、恐れおののき、神に哀願します「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでしょう」(4:13-14)。自分も殺されるかもしれないという恐怖を通して、カインはアベルの苦しみを知り、神に助けを求めます。

・神はカインのような殺人者の叫びさえ聞かれます。「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」(4:15)。誰かがあなたを傷つけようとしても私が許さない、私はあなたを保護する。そして神はカインにしるしをつけられました。兄弟の争いが死を招く。戦争もそうです。人は原罪を背負って楽園の外、エデンの東に住む存在です。私たちもまた「カインの末裔」です。

・カインはやがて結婚し、子を持ちます。エノクです(4:17)。さらに何代かの時を経てレメクが生まれます。レメクは二人の妻をめとり、三人の子をもうけます(4:19-22)。カインの末裔であるレメクは叫びます「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」(4:23-24)。七倍の復讐はカインを保護するためのものでしたが、レメクが主張する七十七倍の復讐は自己の力を誇示するためのものです。七倍の復讐はカインを保護するためのものでしたが、レメクの七十七倍の復讐は自己の力を誇示するためのものです。カインは自分の罪を自覚して生きましたが、レメクには罪の自覚はありません。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対的になります。核兵器を持つことによって安全を確保しようという核抑止力の考え方はレメクの七十七倍の復讐威嚇と同じです。武装し、他者を威嚇することによって自分の身の安全を図ろうとする、この人間中心主義の流れが現代での主流の考え方です。

・そのような系図の中で、主はアダムとエバに新しい子、セトを与えられます(4:25)。そして、セトの子は「主の名を呼び始めた」(4:26)。人間の弱さを知り、それ故に主の名を呼び求める人々の群れが生まれたのです。この流れの中で、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」との願いが生れていきます。赦されたから赦していく、神中心主義の流れです。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきました。カインの子孫たちは「人間に不可能なものはない。能力のない者は滅びよ」という考えを形成して来ました。他方、セトの子孫たちは「人間は弱い存在であり、神の赦しの下でしか生きることが出来ない」ことを知ります。キリスト者たちは自分たちがセトの子孫であることを自覚します。

 

3.平和を考える

 

・日本の8月は平和を考える時です。8月6日に広島に原爆が投下され、8月9日には長崎に原爆が投下されました。そして8月15日に日本は敗戦の時を迎えます。今日の招詞としてイザヤ2:4を選びました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。イザヤが召命を受けた紀元前740年ごろ、中東ではアッシリアが世界帝国の道を歩んでいました。彼らはシリアを占領し、北イスラエルを滅ぼし、今は圧倒的な軍馬をもってユダ王国に降伏を迫っています。人々はアッシリアに対抗するためにエジプトの援助を求めますが、イザヤはこれに反対します「エジプト人は人であって、神ではない」(イザヤ31: 3)。イザヤは現実の世界政治の中に主の働きを見ました。「世界の統治は武力を誇るアッシリアやエジプトによってなされるのではなく、諸国をも支配される主の統治による。終わりの日には諸国民はそれを知り、こぞってエルサレムに集い、主の平和を求めるだろう」とイザヤは預言します。それが今日の招詞です。

・「終わりの日には」、終末預言は現在に対する絶望から来ます。現実の政治に絶望する故に、イザヤは問題の解決を神に求めました。招詞の言葉は、NYの国連ビルの土台石に刻み込まれています。第二次大戦の惨禍を経験した諸国は、「もう戦争はしない」という願いを込めて、イザヤの預言を刻みました。しかし言葉を刻んだだけでは平和は来ません。平和は人間が自分の限界、無力を知った時に、初めて来ます。日本は1945年8月に戦争に負けました。もう兵器はいらなくなり、砲弾にするために兵器工場に集められた鉄が鋳られ、釜や鍬が作られました。戦争に負けたからこそ、日本はイザヤの預言を実現できました。

・人は何故戦争をするのでしょうか。キリスト教は全ての民族が国籍の違いを超えて、同じ神を礼拝する宗教です。しかし、現実には、キリスト者同士が戦争をして、お互いを殺し合います。ロシア人とウクライナ人は共にギリシャ正教の信仰者同士ですが、彼らは殺し合いを続けています。主にあって一つなのに、何故争いあうのか。それは世にあっては、人は民族や国家を超えることが出来ないからです。それはキリスト者も同じです。著名な神学者カール・バルトは戦争の愚かさ、反聖書性を明らかにしましたが、彼もまた自由になることが出来ませんでした。バルトは書きます「ある民族と国家が他の国家により、非常緊急事態に追い込まれ、その存立や独立が脅かされるという究極的なことが起こった時、戦争は肯定されることもある。例えば、スイスの独立・中立・領土不可侵等が犯された場合はそれに該当するであろう」。戦争はいけない、しかし、自分の祖国が敵に侵略された時は、この限りではない。カール・バルトのように、信仰にも学識にも優れた人さえも、世を越えることは出来なかった。イエスは私たちに「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と励まされましたが、これは人の力では実現不可能な教えです。イザヤが言うように、終末が来るまでは戦争はなくならない、この事実を私たちは認識する必要があります。

 

4.戦争は負けた者だけが止めることができる

 

・「敵を愛せ」、「殺すな」というイエスの教えを信じる中で、私たちは今回のロシアによるウクライナ侵略をどう考えるべきなのでしょうか。国際法上、自衛のための戦争は赦されるし、日本国憲法9条でも「急迫不正の侵害があった場合の防衛はできる」と解釈されています。先日の新聞にウクライナで日本語を学ぶ学生の言葉が紹介されていました「今、戦わなければ、平和は訪れない。平和は天から落ちてくるものではない」。「平和は天から落ちてこない」、自分の力で勝ち取るしかないとの考え方がここにあります。しかし、そうなのか、イエスは「右のほほを打たれたら左のほほを出せ」と言われ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われました。イエスであれば、このウクライナの事態に「何をせよ」と言われるのでしょうか。正直答えが見いだせません。

・日本は平和憲法を持っています。78年前に人々はどのよう思いでこの憲法を創ったのでしょうか。日本国憲法の前文は記します。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。現実世界の中で、「人間相互の関係」は「崇高な理想」によって支配されてはいません。「平和を愛する諸国民」は、「公正と信義」を持っていません。戦争をやめることが出来ない歴史を持つ人間に信頼して、「安全と生存を保持する」ことは不可能です。改憲論者が言う通り、憲法の歴史認識は誤っています。

・日本国憲法は歴史的には、日本を占領した米国占領軍(GHQ)の中のクリスチャンたちが中心になって起草したといわれていますが、同時に戦争に苦しめられた多くの日本人も痛切に平和国家を願いました。無教会キリスト者の矢内原忠雄は1945年の講演の中で述べます「我々が神を信じ、希望をもって平和国家のために立ち上がるならば、日本が世界の光となることも必ずしも空言ではありません。武装解除された日本こそが平和国家を真剣に考え、実現できる立場にいるのです」(矢内原忠雄「日本精神と平和国家」岩波新書)。歴史小説家の司馬遼太郎は「坂の上の雲」という、日露戦争を題材にした長編小説の後書きに記します(以下要約)「ロシアは専制君主制という時代遅れの体制であったから日本にきわどく負けたが、戦争を続けていれば勝ったであろう。しかし日露戦争後の日本はこの事を国民に教えようとせず、むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、痴呆化する。そして国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北する。敗戦が国民に理性を与え、勝利が国民を狂気にする」(文庫版p307)。日本人は戦争に負けることによって平和の意味を見出したのです。

・私たちがこの憲法を与えられていることはすばらしいことです。イザヤが述べた終末預言、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」を実際の法文にまで高めたのです。日本国憲法は神が与えてくれた日本国民への贈り物です。私たちは世にある限り、世に属し、世に属する限り、戦争をなくすことは出来ません。しかし、神には出来ます。私たちは「平和を実現する」ことは出来ない。しかし、「御心が天になるごとく、地にもならせたまえ」と祈ることはできます。私たちたちはキリストによってカインの末裔から、セトの子孫に変えられたことを自覚します。平和礼拝の今日、神の御心にそう平和憲法が与えられていることを、改めて認識し、感謝したいと思います。

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