江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年8月6日説教(創世記4:1-16、カインの罪)

投稿日:2023年8月5日 更新日:

 

1.弟を殺したカインの罪

 

・今日は創世記4章を読みます。4章は「カインとアベルの物語」として有名です。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されますが、神は二人に子を持つことを通して命を継承することを許され、カインとアベルが生まれます。兄のカインは土を耕す者(農耕者)に、弟アベルは羊を飼う者(牧羊者)となります。収穫の時が来て、カインは土の実りを、アベルは羊の初子を献げ物として持ってきました。ところが、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(4:4-5)と創世記は記します。後代の教会はアベルがカインよりも勝った生贄を捧げたと理解します(ヘブル11:4 「信仰によって、アベルはカインよりもまさった生贄を神にささげ、信仰によって義なる者と認められた」)。ただ創世記には主が何故そうされたかについての記述はありません。創世記記者がここで語っているのは、「主が何故カインの捧げ物を拒否され、何故アベルの捧げ物を受け入れられたか」について、それは神の判断であって人にはわからないということです。

・人の世には理由のつかない不条理や不公平があります。ある人は生まれながらに貧しく学校にも行けないのに、別の人は裕福な家に生まれ、十分な教育を受けることができます。不公平です。ある人は健康に生まれ、別の人は病弱に生まれ、病弱故に人生の選択肢が制限されます。不条理です。人生は不公平で不条理なのです。では私たちが、この不公平、不条理に直面した時、どうするのか。カインのように怒って相手を殺すのか、あるいはあきらめるのか、さらには神に異議申し立てをするのか、創世記は「あなたはどうするのか」と問いかけます。

・創世記は書きます「カインは激しく怒って顔を伏せた」(4:5)。カインは不当としか思えない神の不条理に怒り、顔を伏せました。彼の怒りは神の選びの不公平に対する怒りです。カインは顔を伏せて神の顔を見ようともしません。そのカインに神は問われます「どうして怒るのか、どうして顔を伏せるのか」(4:6)。神はカインの応答を待たれます。神への怒りであれば神に問えばよいのに、カインは何も言わず「顔を伏せた」。そのことによって、神に向くべき憤慨が弟アベルに向かい、カインは弟を野に誘い、殺しました。

・神はカインに問われます「お前の弟アベルはどこにいるのか」(4:9)。カインの両親アダムとエバは罪を犯した後、神から身を隠し「あなたはどこにいるのか」と問われました(4:9)。今、子のカインが神から問われます「あなたの兄弟はどこにいるのか」。あなたは誰を隣人とするのか、誰に責任を持つのか。神は私たちの罪に対して責任を追求されます。罪が罪として明らかにならなければ、罪の赦し=救いはないからです。

・神の問いにカインは答えます「知りません。私は弟の番人でしょうか」(4:9)。神はそのカインに問われます「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」(4:10)。アベルの血が大地に流れ、その血はカインを告発します。カインは自分がないがしろにされたと怒りました。この怒り、自分は不当に扱われたとの怒りは、私たちも経験する怒りです。そして、怒りは神の前に持ち出さない時、人を殺人にさえ追い込みます。2001年9月11日同時多発テロがアメリカで起こり、アメリカ人3千人が殺されました。アメリカ国民は怒り、アフガンやイラクを報復のために攻撃し、その結果数十万人の人々が死に、アメリカ軍死者も6,500人を超えました。3,000人の報復のために数十万人が死ぬ。それが戦争であり、それがカインの怒りの結果です。私たちもカインと同じ罪、殺人者になりかねない怒りという暗黒を内に秘めているのです。私たちはカインの末裔なのです。

 

2.罪を犯したものを捨てられない神

 

・カインの罪によりアベルの血が流れ、それが地を不毛にし、人の生存を脅かすようになります。主はカインに言われました「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(4:11-12)。カインは罪の宣告を通して、自分の犯した罪の重さを知り、恐れおののきます「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでしょう」(4:13-14)。自分も殺されるかもしれない、カインは神に助けを懇願します。神はカインのような殺人者の叫びさえ聞かれ、カインに言われます「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」(4:15)。誰かがあなたを傷つけようとしても私が許さない、私があなたを保護し、あなたを守る。そして神はカインにしるしをつけられました。神は殺人者さえも生きることを許されることがここに記されています。後代の人間は「人を殺した者は殺されなければならない」として、死刑制度を作りました。しかし、報復のために人の命を奪う死刑制度は、人間を創造された神の御心ではないことを創世記は語ります。

・この「カインのしるし」をめぐって物語が展開するのが、ジョン・スタインベック「エデンの東」です。創世記では弟を殺して追放されたカインは、「主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」(4:16)とあります。「エデンの東」という小説タイトルはここから来ています。この小説は、ある家族の「愛と憎しみの葛藤」を描いた物語です。父アダムは農園を経営していますが事業に失敗し、全財産を失います。母ケイトは家庭を棄てて出奔し、今は娼婦宿の主人になっています。兄息子アロンは真面目で、恋人もおり、父に信頼されています。弟息子キャルは難しい性格で、家族の中で孤立しています。キャルは父親が兄だけを愛し、自分に冷たいことに怒り、兄アロンを傷つけるように仕向け、傷心の兄は戦争に行き、そこで死にます。親子関係の破綻が兄弟関係を壊し、その結果兄弟を死に追いやる、現代のカインとアベルの物語がそこにあります。この小説はエリア・カザンによって映画化され(1955年)、ジェームス・ディーンがキャルを演じて大評判になりました。小説が描くように、人は罪を背負って、エデンの東に住む存在なのです。私たちもまた「カインの末裔」なのです。しかし神はカインに「しるし」を与え守ってくださった。現代の私たちにとってこの「カインのしるし」とは何なのか、それが今日知りたい事柄です。

 

3.しるしとしての十字架

 

・今日の招詞に創世記4:26を選びました。次のような言葉です「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。神はカインを追放されましたが、彼にしるしをつけて保護されました。創世記4章17節以下はカインの子孫についての記事です。カインは妻を娶り、彼女は子を産みます。カインの子孫からレメクが生まれ、レメクは言います「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」(4:23-24)。七倍の復讐はカインを保護するためのものでしたが、レメクが主張する七十七倍の復讐は自己の力を誇示するためのものです。カインは自分の罪を自覚して生きましたが、レメクには罪の自覚はありません。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対的になります。多くの議論を呼んでいる現代の安保法制(防衛力整備システム)の問題はレメクの威嚇と同じです。武装し、他者を威嚇することによって自分の身の安全を図ろうとする、この人間中心主義の流れが現代にも継続されています。
・アダムとエバは次男を殺され、長男は追放されます。主はその二人に、新しい子、セトを与えられます。セトのヘブル名シャトは「授かる」という意味です。主によって子を授かったとの感謝の気持ちが込められています。前にカインを生んだ時にはエバは「私は主によって男子を得た」(4:1)とあります。直訳では「私は主のように人を創った」となります。つまりカインを生んだ時、エバは自分の力で子供を産んだと理解していた。しかしその傲慢の罪の結果、弟息子は殺され、兄息子は遠い所に追放された。その罪の悔い改めがセト(シャト)を「授かった」いう言葉に反映しているという理解です。

・子供は産む(造る)のか、それとも授けられるのか、この理解が子供に対する親の意識を大きく変えるのは現代でも同じです。出生前検査で染色体異常があれば(子のダウン症の可能性が高い)、90%の夫婦は子を中絶します。不良品はいらない、妊娠出産は人間の自由になると思う故です。しかしその中にも勇気を出してダウン症かもしれない子の出産に踏み切られる方々もいます。創世記は、セトの子の時代に「主の名を呼び始めた」(4:26)と記します。「主の名を呼ぶ」、神を礼拝するという意味です。人間の弱さを知り、それ故に主の名を呼び求める人々の群れがここに生まれたのです。

・そしてイエスは「七の七十倍赦しなさい」と私たちに教えられました(マタイ18:22)。この流れの中で、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」との願いが生れていきます。神に赦されたから人を赦していく、神中心主義の流れです。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきました。カインの子孫たちは「人間に不可能はない。劣った者は滅びよ」という考えを形成して来ました。現代社会ではこの優性保護的な流れが多数派でしょう。しかし少数であれ、「人間は弱い者であり、神の赦しの下でしか生きることが出来ない」ことを知るセトの流れを汲むものが存在し、キリスト者は自分たちがセトの子孫であることを自覚します。
・私たちはカインの末裔です。私たちもまたエデンの東に住み、「殴られたら殴り返す」のが当然の社会の中で生きています。その中で、私たちは「七の七十倍までの赦し」を求めて生きます。それはイエスの十字架を見つめる時にのみ可能になります。カインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちもカインの末裔でありながら、「主の名を呼び求める者」に変えられていきます。そしてイエスの十字架を仰ぐ時、イエスが死から蘇られたように、私たちも新しい命を与えられることを信じて行きます。かつてそう生きた人々を私たちは信仰の先達として覚え、記念します。

・私たちは何故聖書を読むのでしょうか。私たちの真実の姿、罪を知るためです。私たちもまた、カインの末裔なのです。「殺されたら殺し返す」のが当たり前の環境の中で、私たちは「七の七十倍までの赦し」を求めていきます。それはイエスの十字架を見つめる時にのみ可能になります。パウロは言いました「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(ピリピ1:29)。カインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちもまた赦しの中にある事を知ります。十字架を仰ぐ時、私たちはカインの末裔でありながら、「主の名を呼び求める者」に変えられていくのです。

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