江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年3月26日説教(ルカ22:14-23、最後の晩餐を記念して)

投稿日:2023年3月25日 更新日:

 

1.イエスを殺す計略

 

・ルカ福音書では22章から受難物語が始まります。祭司長や律法学者たちはイエスを殺そうと考えていましたが、民衆を恐れて手出しできなかったとあります。「過越祭が近づいていた。祭司長たちや、律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。」(22:1-2)。ルカはその時、十二弟子の一人イスカリオテのユダの心にサタンが入りこみ、イエスを裏切る行為をさせたと記します「十二人の中の一人でイスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。」(ルカ22:3-4)。ユダから、イエス引き渡しの相談を受けた祭司長らは喜び、ユダに褒賞金を与えることを約束し、機会を狙い始め」ました(ルカ22:5)。

・ユダが何故裏切ったかについては諸説があります。マタイはユダがお金のためにイエスを売ったと記します(マタイ26:14-16)。しかし、ユダの生涯を見た時、彼が銀貨30枚のはした金でイエスを裏切ったとは考えられません。彼はイエスをメシアと信じて弟子団に入り、多くの弟子たちがイエスを見捨てた後も信従してきました。おそらく、ユダはメシアとして何も行動を起こさないイエスに失望したのであろうと思われます。

・そのイエスは死の直前に十字架上で祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。この祈りは直接的には自分を槍で殺そうとするローマ兵への執り成しですが、そこには、自分を捨てて逃げたペテロや弟子たちへの執り成し、また自分を裏切ったイスカリオテのユダへの赦しも含まれています。もしユダが自死することをせず、生き残っていれば、ペテロに現れた復活のイエスはユダの許にも現れたでしょう。しかしユダは自死を選びました。東八幡教会の奥田牧師は、もしかすれば、キリストは自死したユダにも救いの手を延ばされたのではないかと語ります。「使徒信条は「イエスが陰府に下ったと告白する。イエスはなぜ陰府に下られたのか、それはユダを迎えに行くためではなかったのか」(奥田知志説教集「ユダよ、帰れ」、p102)。私たちの信じるイエスはそこまでして「失われた羊」を探しに行く方です。

 

2.最後の晩餐

 

・過越祭の初めに除酵祭があり、人々は出エジプトを覚えて、小羊を屠り、酵母を入れぬパンを食べました。出エジプトのあわただしい出立を記念するためです。イエスはペトロとヨハネを過越の食事の準備をさせるため使いに出しました。おそらく事前にイエスがエルサレムの知人に頼んで場所を用意されていたのでしょう。準備は滞りなくできました(22:9-13)。最後の晩餐の席上でイエスは弟子たちに言われます「これがあなたたちと取る最後の食事だ」と。

・イエスは死が間近に迫っていることを感じておられます。「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない』」(22:14-16)。「私は切に願っていた」という言葉の中に、イエスの弟子たちへの哀惜の思いがにじみ出ています。イエスは、杯をとり感謝して言われました「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(22:17-18)。イエスは、感謝の祈りを捧げてパンを裂き、弟子たちに与え、「これはあなたたちの罪を贖うため、裂かれる私の体である」と言われました。また杯を取り、「これはあなたがたの罪を贖う私の血による新しい契約である」と言われました。(ルカ22:19-20)

・「私の記念としてこのように行いなさい」、イエス亡き後の教会は、この最後の晩餐を記念して、聖餐式(主の晩餐式)を行うようになります。聖餐(ユーカリスト)という言葉は感謝(ユーカリステオ)から来ます。聖餐式はイエスが私たちのために死んで下さったことを感謝する場です。そこで食べるパンは普通のパンですが、信仰者にとっては、それが「キリストの体」になります。

 

3.だれが一番偉いのか

 

・注目すべきは、最後の晩餐の席上に、やがてイエスを裏切るイスカリオテのユダも共にいることです。イエスはユダに悔い改めの機会を与えられます。「しかし、見よ、私を裏切る者が、私と一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」(22:21-22)。ユダは悔い改めず、その時点で彼は自分の運命についての全責任を負うことになります。ただユダと他の弟子たちは同等であることに注意すべきです。他の弟子たちもイエスが捕らえられると一斉に逃げていきました。積極的に裏切ったユダと、消極的に裏切った弟子団の違いです。過ちを犯したことが問題ではありません。人はみな弱さゆえに過ちを犯す。問題は、過ちを犯した後で悔い改めるか、それとも自分で処理をしようとするかで結末に大きな違いが生まれます。

・「私を裏切る者が、この席にいる」というイエスの言葉から、「それは誰だ」という弟子たちの犯人探しが始まります。「使徒たちは、自分たちのうち、いったい誰が、そんなことをしょうとしているのかと互いに議論をし始めた。」(22:23)。「まさか私ではないですね」、「もしかしたらあなたか」、弟子たちは自分を振り返るのではなく、仲間たちを疑い始めています。誰でも裏切りかねなかったのです。その中で、議論は次第に、「誰が食卓の上席を占めるのか」、「誰が一番偉いのか」という議論に変わっていきます。「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうかという議論も起こった。」(ルカ22:24)。

・イエスが死を前におののいておられる時、弟子たちはイエスの苦しみを理解することなく、自分たちのことだけを考えています。そのような弟子たちにイエスは語られます。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(22:25-26)。イエスが示された指導者の在り方は、仕える(ディアコニア)ことです。ですから教会の執事は仕える者(ディアコノス)と呼ばれます。

・信仰者はイエスが言われたように、「食事の席に着く」のではなく、「給仕する者」を目指していきます。イエスは語られました「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(22:27)。そしてイエスは自分が去って行かれた後のことを弟子たちに委ねられます。「あなたがたは、私が種々の試練に遭った時、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた。だから、私の父が私に支配権を委ねて下さったように、私もあなたがたにそれを委ねる。」(22:28-29)

・ルカはここで二つの事柄を私たちに伝えるとルカ福音書の注解者クラドックは語ります。「第一はキリストへの裏切りは主の晩餐に列席している者たちの間で起こったのであり、また再び起こりうるという使信である」。第二に「主の食卓の場面に偉さに関する議論を置いたことによって、十二人の歴史における醜い瞬間を、食卓を共にしている人々に対する深刻で現在でも意味のある教訓に変えている」。後の教会は教団内の勢力争いの中で分裂を繰り返してきました。私たちが教会内で争いを抱える時、この主の晩餐式での席順の争いが再現されているのです。

 

4.イエスの死を覚えて

 

・今日の招詞にマタイ26:26-28を選びました。次のような言葉です「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これは私の体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である』」。マタイの描くイエスの晩餐式の言葉です。イエスと弟子たちは、最後の晩餐を「過越しの食事」として祝いました。それはエジプトからの救済を祝って犠牲の子羊を屠って食する時です。最後の晩餐において、イエスはパンを取り、感謝してそれを裂き、弟子たちに与えられました。また杯も同じように弟子たちに与えられました。この最後の晩餐でのイエスの言葉「取りなさい、これは私の体である。飲みなさい、これは私の血である」を後の教会は深く覚えて、礼拝の中で唱和するようになり、それが今日の教会においても祝われる主の晩餐式となりました。

・パンが配られた後、イエスは杯を取り、これを祝福して言われました「この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」。ユダヤでは「血」は契約の徴です。古代の契約は動物を二つに裂いて、当事者がその間を通ることによって成立しました。「契約を結ぶ」、ヘブル語=カーラトは、「切る、切り裂く」という意味を持ちます。アブラハムは主と契約を結ぶ時、雌牛と雌山羊を二つに切り裂きました(創世記15:17)。切り裂かれた動物の間を通ることによって、もし契約を破るなら二つに切り裂かれてもかまわないという同意を表わすためでした。血は契約の徴です。契約とは命をかけた行為なのです。

・この箇所にはイエスの万感の思いが込められています。聖書学者の加山宏路先生はこの箇所を次のように言い換えられます「私は私自身をあなた方に与える。今、私がここで裂いてあなた方に渡すパンのように、ほどなく十字架で引き裂かれようとする私の体を、いや私自身をあなた方に与える。これを私と思って受け取りなさい。私は十字架につけられて血を流そうとしている。イスラエルの先祖たちが裂かれた動物の間で血の契約を立てたように、私の流す血、それが私の契約の徴だ。あなた方に与えるこのぶどう酒のように、私は私の命をあなた方に与える」(説教者のための聖書講解「マルコ」p358)。

・「私自身の命をあなた方に与える」、イエスの言葉を弟子たちは忘れることが出来ませんでした。ですからイエス復活後の教会においては、最後の晩餐を記念する「主の晩餐式」が礼拝の中心になっていきました。最後の晩餐におけるイエスの言葉は、私たちに希望を与える言葉でもあります。イエスは最後に言われます「言っておくが、私の父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタイ26:29)。この言葉は、この食事が弟子たちと取る地上での最後の食事であるけれども、同時に死が終わりではなく、死を越えて神の国が来る、その時に「再び共に食卓につこう」という約束の言葉でもあります。ここにあるのは、来るべき神の国への招きの言葉でもあります。私たちは主の晩餐式において、共にパンを食べ、共に一つの盃からぶどう酒をいただくことによって、来るべき神の国の祝宴に預かっているのです。イエスは「私は私自身をあなた方に与える」と言われました。この言葉はイエスが私たちに残された遺言なのです。

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