江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年7月9日説教(創世記1:26‐2:4a、人間の創造)

投稿日:2023年7月8日 更新日:

 

1.人間の創造

 

・創世記を読んでいます。創世記1章は天地創造の記事ですが、1章26節から人間の創造が記されています。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」(1:26)。そして27節が来ます「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1:27)。ここに「創造された」と言う言葉が三回も用いられています。人こそが神の創造の目的だったのです。そして神は人を祝福して言われます「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(1:28)。すべての人々は神の祝福の中に生まれてきます。罪を犯したイスラエルもまた神の祝福の中にあり、親が望まない形で生まれてきた人もまた、神の祝福の中にあります。私たちがどのような状況にあっても、神は私たちの存在を肯定しておられる、だから私たちもまた自己を肯定することが出来ると創世記は語るのです。

・すべての人は存在することにより、肯定されています。男も女も、大人も子供も、健常者も障害者もまた、神の肯定の中にあると創世記は語ります。現代の社会では多くの人が自分を肯定できなくなり、日本では毎年3万人近い人が自殺しています。自殺未遂を含めると50万人です。一日1000人以上の方が自分を肯定できず、生きる意味を見いだせず、自らの命を断とうとする社会の中に私たちはあります。これは大変なことです。そしてまた年間20万人の幼い命が人工妊娠中絶という形で闇から闇に葬られています。これらの命の問題を真剣に考え、社会に訴えていくこともまた教会の大きい使命です。そのような社会の闇を貫いて、「光あれ」という言葉が響き、闇が分断されます。だから、私たちもどのような中にあっても希望を持つことが出来ます。創世記を自分の物語として読む時、私たちは、闇の中にあっても光を待つことが出来ます。創世記1章はバビロン捕囚の苦しみの中で生まれた救済の書です。

・神は言われます「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(1:26)。神はご自分の形に私たちを創造されました。神の形とは人格を持つ存在として人が創造されたことを意味します。神が語りかけられ、それに応えうる存在として造られました。神と私たちの間には、「私とあなた」という人格関係が成立しているのです。植物や動物は「あなた」ではなく、「それ」、ものに過ぎません。その中で人間だけが創造主と「あなたの関係」に入ることが許されています。ですから、自分と異なる人とも「私とあなた」の関係を持てと言われているのです。イスラエル人はバビロン捕囚の地で人格を否定され、「それ」という奴隷の状態にありました。敗残者として卑しめられていた。その中で、神は自分たちを、「あなた」と呼んで下さる。そのことの中に、現実の「それ」という関係が、やがて「あなた」という関係に変えられる望みを、イスラエルの民は見たのです。

 

2.もう一つの人間の創造

 

・創世記1章は天地の創造が中心ですが、創世記2章にはもう一つの創造物語があります。2章4節から語られる物語です。「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」(2:4b-5)。創造前の世界は土を耕すものがいないため荒涼たる世界であった、故に神は「地を耕す者」として人を創造されたと創世記2章は語ります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)。土=アダマで創られた故に、人はアダムと呼ばれます。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような存在であることを示します。人は自分の命を左右することも出来ないし、死ねば土に返って行きます。しかし、その無価値な存在に、神は生命の息を吹き込まれた。神の息が吹き込まれた故に、人は生きる者になったとここに言われています。

・そのような人に、神は、園を耕し、管理する業を委ねられます。2章8節「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」、15節「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。この園がエデンの園=パラダイスと呼ばれます。また耕す=アーバドは「仕える」という意味も持ちます。仕える人がいなかった時、大地は何も生まなかった。人が地に働きかけ、地を耕して行く時、地は収穫をもたらします。耕す(cultivate)時、そこに文化(culture)が生まれていく、ここに聖書の労働観があります。人は働くために創造され、使命感をもって働く時こそ、本当に生きる存在となるとの主張です。働くことは、毎日を目標を持って生きることです。宗教改革者ルターを労働をベルーフ=召命と呼びました。人は労働=職業を通して神に仕えていく時に、生き生きと生きることができるのです。やるべきことがある、それが人を生かします。

・さて創世記には何故二つの創造物語があるのでしょうか。創世記の最終編集者はバビロン捕囚期の祭司たちです。彼ら捕囚の苦しみの中で、苦しみ(闇)を切り裂く光を求め、それが創世記1章の物語になりました。同時に彼らの手元には先祖から継承した別の創造伝承がありました。それが2章4節以下の物語として1章に統合されました。創世記2章は、「人間は土の塵から造られ、神が命の息を吹き入れて下さって初めて生きる者となった」と語ります。人間は土のちりで造られ、神がその命の息を取り去られれば死んで土の塵に返っていく、そういうはかない存在でしかない。しかし同時に、今私が生きているのは、神に依って生かされている。編集者の祭司たちは生かされていることの喜びを2章以下に記し、現在の形になっています。

 

3.創造の完成としての7日目

 

・創世記1章に戻りましょう。創世記1章の創造物語では、神は六日間で創造の仕事を終えられ、七日目に休まれたとあります「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(2:1-3)。神が六日働いて七日目は休まれた故に、私たちも月曜日から土曜日まで六日間はこの世の仕事を行い、七日目の安息日は聖なる日として礼拝に参加します。

・安息日を規定化したものが、出エジプト記20:8-10、今日の招詞です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」。創世記1章はバビロン捕囚を経験したイスラエルの民が、国の滅亡、捕囚という裁きを通して自分たちの罪を見つめ、悔い改めを文書化したものです。異国の地に捕囚となった多くの民族はやがて滅びましたが、イスラエルだけは生き残り、今日まで信仰を保持しています。それが可能だったのは、この安息日の順守だったといわれています。捕囚の民は、七日毎に礼拝所(シナゴーク)に集められることを通して、民族として生き残ったのです。

・彼らはシナゴークで、神の言葉=律法を聞きました。捕囚民は自分たちの罪の赦しを求めて、創世記を記述しましたが、創造の初めでは、人間は穀物と果物だけを食べて生きるように創造されたとあります。「神は言われた『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう』。そのようになった」(1:29-30)。創造の最初には、動物の命を奪って生きる肉食は禁止されていたのです。

・その肉食が許されたのは、ノアの洪水後でした。洪水の後で神は言われます。「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(9:3)。ノアの洪水は人間に対する裁きでした。神はご自分の似姿として創造した人間が罪を犯し、堕落するのを見られて、彼らを創造したことを悔い、これを滅ぼそうとされます。しかし神は「滅ぼし尽すことはされず、ノアと家族たちに再生の希望を託されました。洪水後、神は語られます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。私は、このたびしたように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)。

・神は再創造された人間を罪あるままに受け入れられた。捕囚の民は、罪ある存在を罪あるままで受け入れられた神の御心を洪水伝承の中に見て、このような記事を残したのです。神は私たちが罪人のままで生きることを赦された。肉食への赦しの中に人はそれを見出しました。だから私たちは週に一度、聖別された安息日に神の前に出て、罪あるままに生きることを許されていることを感謝する。それが私たちの行う礼拝です。

・この様にして安息日規定が定められていきました。それには二つの意味があります。一つは「七日目ごとに休め」という神の命令がそこにあることです。人間は休まなければ体が壊れる。近年、過労死問題がクローズアップされていますが、労働医学では1カ月の残業時間が45時間(一日2時間)を超えると健康に影響が生じ、100時間(一日4時間)を超えると、心疾患や脳血管疾患の発生リスクが高まるとします。「休んで体力を回復せよ」との祝福が語られています。もう一つは「七日目を聖なる日として守れ」という命令です。人は神により生かされている、その感謝を七日目ごとに捧げることによって精神の健康を維持せよとの配慮です。安息日は人が心身ともに健康に過ごせるように定められたのです。

・しかし人間は恵みとして与えられた安息日をやがて、「守らなければならない日」にしてしまいます。安息日が「休むことのできる日」から「守らなければいけない日」に代わり、イエスの時代、指導者たちは安息日には全ての仕事をしてはいけないと語りました。火をおこすことも薪を集めることも食事を用意することさえも禁じられるようになります。ここに至って、安息日が安息ではなく、人を束縛するものになっていきました。その人々に対してイエスは言われます。「安息日は人のためにある」のだと。そのイエスをファリサイ人たちは安息日を守らないものとして憎み、殺しました。

・イエスは命を懸けて安息日を本来の祝福の日に戻してくださったのです。私たちは日曜日ごとに教会に集まり、神の言葉を聞きます。そして励ましと休みを受けて、残りの6日を元気に働くために出ていきます。カール・バルトは教会教義学の中で、キリスト者の倫理を「神の御前での自由」という表題で記し、さらに安息日を巡る問題を「祝いと自由と喜びの日」として書き始めています。日曜日を「礼拝を守らなければいけない日」と考えた時、それは私たちを縛る日になります。日曜日を「礼拝に参加することが出来る日」に変えることが出来れば、私たちの人生はどんなにか豊かになるでしょう。礼拝に来てよかった、礼拝に来て生き返った、そのような礼拝を捧げることができるように祈ります。

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