江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年6月18日説教(ローマ12:9-21、迫害する者のために祈れ)

投稿日:2023年6月17日 更新日:

 

1.迫害する者のために祈れ

 

・今日はローマ12章を共に読んでいきます。ここに書かれているのは、「キリスト者はこの世でいかに生きるべきか」ということであり、その生き方を貫く縦糸としては「愛」です。パウロはローマ帝国の各地で開拓伝道をしながら、いつかは首都ローマに行って伝道したいという希望を持っていました。その準備として、彼はローマにいる信徒たちに手紙を書きます。手紙の中で、彼は自分がたどった回心の歴史、キリストに出会って罪を知ったこと、悔い改めたこと、新しい生き方を示されたこと等を述べています。そして「神を信じる者の新しい生き方とは何か」をローマの信徒たちに送ったものが、12章以下の言葉です。
・12章冒頭で彼は言います「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。ユダヤの民はエルサレム神殿で犠牲の動物を捧げ、異教の民は異教の神殿で犠牲の動物を捧げて神を礼拝していました。しかしパウロは語ります「キリスト者は自分の身体を神への犠牲として捧げる」。キリスト者の礼拝は主日に教会に集まるだけでなく、毎日の生活を神に献げることだと彼は言います。礼拝とは日曜日に教会に集まることだけではなく、毎日の生活の中で神を証ししていく、この世において神の救いを受けた者にふさわしく生きていく、それが本当の礼拝だと彼は言います。具体的にはどのような生活なのか、パウロは9節以下で説明します。
・一言で言えば、それは「愛する」生活です。彼は言います「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9-10)。この「愛」には冠詞がついています。「ヘ・アガペー」、その愛、神によって示された愛です。イエスは最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗って言われました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。このイエスによって示された愛、相手の足を洗う愛、仕える愛、これが「アガペー」と呼ばれる愛です。私たちが「人を愛する」と言う時、そこには「好き嫌い」の感情が入ります。好きな人を私たちは愛し、嫌いな人は愛さない。この愛は「エロス」と呼ばれるものです。聖書はエロスの愛を否定しません。人間として当然な感情だからです。しかし、エロスの愛だけでは本当の人間としての交わりは不可能です。なぜなら、そこには味方と敵が生じるからです。好きな人は味方になり、嫌いな人は敵になります。そして敵がいる以上、そこに争いが生まれます。
・「嫌いな人をも受け入れる愛」、それがアガペーです。パウロは「教会に集まるお互いを、実の兄弟姉妹のように愛しなさい」と教えます。教会に集まる人の中には、良い人も悪い人もいます。尊敬できない人も、好きになれない人もいます。体質的に受け入れがたい人もいるでしょう。そのような人でも「互いに愛し、尊敬をもって、相手を優れた者と思いなさい」とパウロは語ります。アガペーの愛とは好き・嫌いという感情を超えた愛です。人間は嫌いな人を愛することは出来ません。だから、祈ることが求められています。パウロは言います「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(12:12)。

・パウロは続けます「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(12:14-15)。当時のキリスト信徒たちはユダヤ教徒からもローマ人からも迫害を受けていました。パウロ自身も「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。(異教徒から)鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました」と述べています(第二コリント11:24-25)。鞭打ちは三九回までに限定されていました。それ以上続けると死んでしまうからです。その鞭打ちをパウロはユダヤ教徒から五度、異教徒のローマ人から三度も受け、石打(リンチ)も受けていました。それだけ苦しめられたパウロが何故「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言えるのでしょうか。これは人間に出来る愛ではありません。パウロは不可能なことを人々に要求しているのでしょうか。

 

2.敵を愛し、迫害するもののために祈れ

 

・今日の招詞として、マタイ5:43-44を選びました。次のような言葉です「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。有名な山上の説教の一節です。隣人を愛せとはレビ記からの引用ですが、レビ記には敵を憎めとは書かれていません。しかし、多くの民族が住むパレスチナでは、隣人とは同じ民の人々、同朋のことであり、同朋でないものは敵でした。人々は敵から身を守るために高い城壁をめぐらした町の中に住み、城壁の内側にいる人が隣人で、そうでない者は敵で、敵を愛することは身の危険を意味しました。イエスもそれが人間の当然な感情だと知っておられました。しかし、イエスは言われます「あなたがたは私の弟子ではないか。私に従うと言ってくれたではないか。取税人でも異邦人でもすることをして十分だとすれば、あなたがたが私の弟子である意味は何処にあるのか」。
・イエスは言われます「あなたがたは私を通して父なる神に出会った。そして、神の子となった。父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨を降らして下さる。だから、あなたがたも父の子として敵を愛せ」。多くの人々は、イエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えます。人々は言います「愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。そうしなければ、この世は暴力で支配されるだろう」、「悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するために力を用いるのは已むを得ない」。この論理は現代においても貫かれています。軍隊を持たない国はありませんし、武器を持たない軍隊はありません。武器は人を殺すためにあり、襲われたら襲い返す、その威嚇の下に平和は保たれています。相手は襲うかもしれない存在、即ち敵です。悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、争いは終りません。「目には目を、暴力には暴力を」、これが人間の論理であり、この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきました。
・イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」。悪は憎め、しかし、悪人は憎むな。何故なら、悪人もまた、父の子、あなたの兄弟であるから。共産党宣言を書いたカール・マルクスは「イエスの教えを愚かな、弱者の教え」だと切り捨てました。彼は殴られたら殴り返すことが正義であると信じ、その正義が貫かれる社会を作ろうとしました。レーニンや毛沢東はマルクスの意志を継いで、理想社会を作ろうとしましたが、出来た社会は化け物のような社会でした。何故でしょうか。殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは信用出来ない存在であるからです。人間がお互いを信じられない時、平和は生まれません。右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だと聖書は言います。「敵を愛せよ、敵を愛することによって、敵は敵でなくなるのだ」とイエスは教えられました。

 

3.迫害者のために祈れ

 

・パウロはこのイエスの言葉を受けて、迫害の中にあるローマ教会に手紙を書き送りました「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われると書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12:19-21)。「神は天だけではなく、地も支配しておられるのだから、すべてを神に委ねて静かに待て」とパウロは言います。しかし人は「神に委ねて静かに待つ」ことができず、自分の手で報復をしようとします。

・2001年9月11日に無差別テロがアメリカを襲い、NY貿易センタービルが破壊され、2973人が殺されました。アメリカ大統領G.ブッシュは「テロとの戦い」を宣言します。アメリカ国内では「仕返しと報復を立法化せよと要求する怒りの声」が巻き起こり、町には星条旗があふれ、アメリカに忠誠を誓わない者はアメリカの敵だとの大統領声明が出されます。その中で教会は祈りました「復讐を求める合唱の中で『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように」。やがてアフガニスタンに対する空爆が始まると、教会は祈ります「キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています、神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」(「グランド・ゼロからの祈り」、ジェームズ・マグロー、日本キリスト教団出版局、2004年)。この祈りにも関わらず、アフガニスタンは攻撃され、イラクへの爆撃も始まりました。教会は無力なのでしょうか。

・マルティン・ルーサー・キングは語ります「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に、憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」(キング説教集「汝の敵を愛せ」から)。

・「愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力だ」とキングは語りました。先に見ましたように、2001年9月11日のテロ攻撃で3千人のアメリカ国民が殺されました。アメリカのブッシュ大統領は演説しました「テロとの戦いは、悪を取り除く神の戦いである」。アメリカはイラクやアフガニスタンを空爆し、地上軍を派遣します。20年後の昨年、アメリカはアフガンからの撤退を決定しましたが、米ブラウン大ワトソン研究所によると、同時テロ後のイラク戦争なども含めた米軍の戦死者は7千人で、自殺者は死者の4倍以上、3万人にのぼるそうです。戦争による精神的負担、PTSDが多くの帰還兵を自殺に追いやりました。不完全な人間が自分の手で報復する、悪を自分の手で抜き去ることは、大きな悲劇をもたらすことを歴史は示しています。まさにパウロやキングが語った通りです。

・私たちが聖書をどのように聞くのか、どのように釈義するのかは、国家の命運を変えるような出来事にもなりえます。教会は決して無力ではありません。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という聖書の言葉を聞けなかったために、アメリカの悲劇が生まれました。最近の日本はまるで準戦争状態にあるように軍備を増強しています。台湾有事に備えて、与那国島・石垣島・宮古島等の南西諸島にミサイル部隊を配置しました。国を守るとはそういうことなのでしょうか。敵襲に備えて軍備を増強することが、国を守ることではありません。パウロは語ります「愛は隣人に悪を行なわない。だから、愛は律法を全うする」(ローマ13:10)。私たちの助力を必要とする人のために何ができるかを祈り始めた時、私たちは神の国に近づいていきます。

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