江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年6月11日説教(ローマ11:11-24、少数者としての誇りを持って)

投稿日:2023年6月10日 更新日:

 

1.キリストを受入れない同胞への悲しみ

・ローマ書を読んでいます。パウロは異邦人伝道者として召命を受け、多くの異邦人をキリストに導きました。それはパウロには大きな喜びでしたが、同時にパウロは「同胞ユダヤ人が今なおキリストを拒絶し続けていること」に悩んでいました。ユダヤ人の多くはキリストを救い主として受け入れない。「人はキリストの十字架を通して神と和解し、救われる」と信じるパウロにとって、キリストを拒絶することは神を拒絶することであり、滅びを意味しました。「神はユダヤ人を御自分の民として選ばれたのに、今は捨てられたのか」、「私の同胞は滅びに至るのか」、その問題を述べた箇所が今日のテキスト、ローマ書11章です。

・ユダヤ人は「神の民」として選ばれた民族です。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記12:3)。神はユダヤ人を通して人類を救おうとされ、その約束はユダヤ人として生まれられたイエス・キリストの誕生により成就しました。しかし、ユダヤ人たちは、キリストを殺し、今なおキリストの教会を迫害しています。何故彼らは神の憐れみであるキリストを受入れることが出来ないのか。彼らは永遠の滅びの中に入ってしまうのか。それはパウロにとって耐えられない悲しみでした。

・このパウロの悲しみを私たちも共有します。日本に福音が伝えられて150年が経ちますが、ほとんどの日本人はキリストを受入れようとしません。私たちの家族でさえ、福音を信じようとしません。「キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)とすれば、キリストを信じることなしに死んでいく私たちの家族は、滅びしかないのでしょうか。「同胞がキリストを受け入れようとしない」というパウロの歎きは、私たちが置かれた状況と同じです。パウロは語りました「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(9:3)。私たちはこの痛み、「家族が救われるためならば、私は滅んでも良い」というほどの痛みを祈っているだろうかと問われています。
・パウロは言います「神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」(11:1)。パウロは神の摂理を信じます。故に、ユダヤ人がキリストを拒絶するのもまた神の計画の中にあると信じます。ではなぜ神はユダヤ人の心をキリストに対して閉ざされたのか、そこまで考えた時、パウロは驚くべき逆説に気づきます。神は「異邦人を先に救うことを通してユダヤ人を救おうとされている」との逆説です。それが今日のテキスト11:11の箇所です「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らに妬みを起こさせるためだったのです」。
・パウロ自身当初はユダヤ人同胞に伝道しましたが、彼らが受け入れなかったため、進路を異邦人に向けました(使徒13:46「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」)。もしユダヤ人がイエスを受け入れて福音を信じたならば、キリスト教はおそらくユダヤ教の一派に留まり(ユダヤ教ナザレ派)、全世界に述べ伝えられることはなかったでしょう。神の言葉である旧約聖書がユダヤ人に与えられた時、彼らはそれをユダヤ教内の聖典として抱え込み、他民族には伝道しませんでした。しかしキリストの福音は、イスラエルの拒絶によって、民族を超え、ローマにまで伝えられて行きました。まさにユダヤ人の拒絶が福音宣教に決定的な役割を果たしたことを、パウロは神の摂理として受け入れます。

・それだけではなく、救いが異邦人に及ぶことを通して、一度は福音を捨てたユダヤ人がまた神の恵みに帰るという幻をパウロは与えられました。それが11:12の言葉です「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。人間の罪や過ちは取り返しのつかないものではない。神は人間の過ちを善に変える力をお持ちだ。だから私たちもまた、家族や友人が今は福音に心を閉ざしているとしても、それは神の計画の中にあるのであり、いつの日にか、家族もまた福音を受け入れるという希望を持つことが許されているのです。

 

2.先に救われた者の役割

・では先に救われた異邦人の役割は何でしょうか。それは「ユダヤ人に妬みを起させることだ」とパウロは語ります「あなたがた異邦人に言います。私は異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞に妬みを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(11:13-14)。パウロは続けます。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」(11:15-16)。私たちの周りでも、妻の信仰を見て夫が変えられて行く、子の変化を見て親が信仰に入ることがあります。私たちが家族を回心させるような生き方をすれば、「そのような出来事が起こる」とパウロは語り、私たちも期待します。
・パウロはユダヤ人と異邦人の関係を「根と接ぎ木」として説明します。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11:17-18)。異邦人の救いは、ユダヤ人という根に野生のオリーブが接ぎ木されたようなものであり、接ぎ木された枝が根であるユダヤ人に対して、誇るところは何もないとパウロは語ります。しかし、ローマ教会で多数派を占めた異邦人キリスト者は、少数派のユダヤ人キリスト者を「律法に縛られた弱い者」と呼んで軽蔑していました(14:1)。まさに接ぎ木された枝が、その根を嘲笑していました。

・パウロは語ります。「あなたは『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(11:19-20)。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」というパウロの言葉は、2000年の歴史を振り返る時、大きな意味を持っています。パウロの時代、ユダヤ人がキリストの教会を迫害していましたが、キリスト教がローマ帝国の国教となると立場が逆転し、今度はキリスト教徒がユダヤ人を、「キリストの殺害者」として迫害するようになります。まさに「枝が根を迫害する」ようになったのです。それ以降、ヨーロッパの至る所でユダヤ人は迫害され、殺され、2000年間の反ユダヤ主義の積み重ねがやがてナチス・ドイツによる600万人を超えるユダヤ人大量虐殺を生んでいきます。アウシヴィッツの出来事は、人々がパウロの言葉を真剣に聞かなかったことから生まれているとも言えます。

 

3.少数者としての誇りに生きる

 

・今日の招詞にローマ11:31-32を選びました。次のような言葉です「彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。ユダヤ人は先祖伝来の自分たちの正しさ(律法による救い)に固執し、神の義からそれてしまいました。パウロにとってのユダヤ人は、私たちにとっての家族や、教会を離れて行った友のことです。パウロは語ります「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」(11:25-26)。

・神は最後には同胞ユダヤ人を救われるとパウロは確信します。パウロは、それが自分の生きている間に実現する、キリストの再臨と共に起こると考えていたようです。そのためにも異邦人伝道を急がなければいけない。彼はローマに行き、そこを拠点に地の果てスペインにまで福音を伝えた時がその成就の時だと考えていたようです(15:22-24)。しかしそれは実現しませんでした。ローマに行ったパウロはその地で捕らえられ、処刑されます(紀元60年、手紙から4年後)。ではパウロの考えたユダヤ人の拒絶と救いは幻想に過ぎなかったのでしょうか。それとも実現しつつあるのでしょうか。

・歴史を振り返れば、ユダヤ人虐殺(ホローコスト)は人間の罪により起こされましたが、神はその悲惨な出来事を通して世界中の関心をユダヤに集中させ、イスラエルの地に彼らが国を再び建てることを許されました。国を無くして2000年間放浪していた民族が、国を再建したことは歴史上ありえない出来事です。その出来事を神は起こされた、神はユダヤ人を捨てておられない。ボンヘッファーは語りました「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、またそれを望み給うということを、私は信じる」(ボンヘッファー「抵抗と信従」から)。

・神はユダヤ人をその不信仰の故に裁かれますが、それは彼らを滅ぼすためではなく、救うためです。神は福音を世界に伝えるために一時的にユダヤ人の心を閉ざされたが、それは彼らを捨てられたからではない、「現に私のようにキリスト者を迫害していた神への反逆ユダヤ人を神は救って下さったではないか」とパウロは語るのです。同じように、神は私たち、先に救われた者たちを用いて、家族や友人を救おうとされている、そこに私たちの希望があります。

・日本は八百万の神がいる場所、キリスト教伝道が難しい地だと思います。クリスチャンは人口の1%、少数派です。しかし、パウロは「私は、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいたと告げておられます」という列王記の記事を引用し、残された者の役割が大きいことをローマ書で示します(11:4)。また使徒言行録によれば、コリント伝道に行き詰ったパウロに言葉が与えられました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いる」(使徒18:9-11)。「この町には、私の民が大勢いる」という言葉は、その後の2000年間の教会の伝道を導く光でした。伝道者は、成果が見えない時は孤独です。しかし、神の民はそれぞれの地に必ずいます。伝道とは、隠されている神の民を見出すことです。私たちは篠崎の地で江戸川区の方々を対象に伝道しています。江戸川区の人口は70万人、それに対して教会は17しかありません。仮にキリスト者数が人口の1%であれば、江戸川区には7千人の潜在的なキリスト者がおり、1教会当り411人にもなります。411人の「神の民」が与えられているのに、私たちの教会の会員が40名前後であることは明らかに私たちの努力不足です。工夫の余地があるのです。

・私たちは神が日本に与えてくれた残りの者、少数者です。少数者ゆえに出来る生き方があります。「地の塩」としての生き方です。少量の塩は全体を腐敗から守り、食事に味付けをするものですが、多すぎると辛くなって料理がまずくなります。少数だからよいのです。この世は罪の世で、人は皆自分の利益のみを求めて行動しています。その中で、世から見捨てられた者たちのために働く人が必要です。ボンヘッファーは語ります「教会は、他者のために存在する時にだけ教会である・・・教会は、あらゆる職業の人に、キリストと共に生きる生活とは何であり、他者のために存在するということが何を意味するかを、告げなければいけない」(D. ボンフェッファー「獄中書簡」439-440p)。

・自国から逃れて日本に来たのに日本で受け入れられずに泣いている人々がいます。コロナ禍で職を失い明日のパンを食べることの出来ない人々がいます。DVで夫から身を隠し、貧困にあえいでいる人がいます。老人ホームに入り、生きがいを失って、死を待っている人がいます。人間が生きるのに必要な者は他者からの肯定です。あなたの存在には意味があると思ってくれる人がそばにいれば人は生きていける。その役割を担うために私たちが存在する。ヘンドリック・クレーマーは「信徒の神学」の中で語ります「世にあるキリスト者、それが信徒であり、教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく。信徒こそが世に離散した教会である」。キリスト者としての生き方を家族や友人に証ししていく、その時、キリストを信じない家族も、福音を拒む友も、悔い改めて救われていくことを信じ、私たちは伝道していくのです。

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