江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年5月14日説教(ローマ6:1-14、罪に死に、キリストに生きる)

投稿日:2023年5月13日 更新日:

 

1.罪の赦し

 

・ローマ書を読み続けています。パウロはローマ書5章で「救いとは罪が赦されて、神と和解し、神の平和の中に生きることだ」と述べました(5:1-2)。世の人は自分の功績を積むことによって、他の人から認められ、安心を得ようとします。しかし、他の人が認めてくれないとその平和は崩れます。そのような人に左右される平和ではなく、本当の平和、「神との和解による平和」を求めよとパウロは言います。その平和は神からの無条件の赦しとして与えられます。ユダヤ人は「律法を守ることによって人は救われる」として、異邦人キリスト者にも律法を守るように求めていましたが、それは間違っているとパウロは語ります「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5:20)。律法の役割は、人に「罪とは何か」を知らせることではあり、それ以上ではないと。

・このパウロの意見に対して、ローマ教会内のユダヤ人キリスト者は反論します「律法、戒めがないとしたら、人はいくらでも罪を犯す。律法があるからこそ、人は悪い行為を思い留まることが出来る」。それが6章1節で展開されている論理です「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか」(6:1)。律法は当時のユダヤ人を規制していた法、今日で言えば法律になります。刑法には「罪刑法定主義」という考えがあり、法律なしには人は罰せられません。つまり「してはいけない」という法があって、それを破った者を罰することによって、社会の秩序は維持される、外からの規制がないと人間社会は全くの無秩序になるという考え方です。ユダヤ人信徒は、だから「律法なしには人の世の秩序は保てない」と主張しました。

・それに対してパウロは、「違う」と反論します。「決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょうか」(6:2)。社会は律法なしには秩序は保てないかもしれないが、キリスト者の共同体ではそうではないはずだ。キリストが私たちのために死んでくださった、そのことがわかった時に、私たちもキリストと共に死ぬ、そして「死んだ者はもう罪を犯すことができなくなっている」(6:7)。罪を犯せない存在にされたのであれば、「してはいけない」という律法はもはや不要になった。この罪からの解放を象徴する行為があなた方の受けたバプテスマだとパウロは語ります「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた私たちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを」(6:3)。

・「バプテスマを受けるとはキリストと共に死ぬ」ことだとパウロは言います。「私たちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(6:4)。バプテスマの第一の意義は「キリストと共に死ぬ」、キリスト共に十字架につけられる体験をすることです。それは当然に痛みを伴います。この世的なしがらみを断ち切る痛さです。初代教会の人々は受洗によって、ユダヤ教社会から排除されました。明治期のクリスチャンたちは受洗するならば「勘当する」という、親族からの警告の中で、バプテスマを受けました。死ぬとはそういうことです。しかし現代の私たちは受洗しても何も捨てない、そのため、バプテスマを受けても生き方が何も変わらない、新しい命を生きていない。ここに私たちの問題点があります。

 

2.赦しから潔め

 

・「キリストと共に死んだ」者は、「キリストと共に復活」して、「新しい命に生きる」。キリストと共に死んだ者はもう以前のような歩み方は出来ない。だからパウロは語ります「私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(6:5)。バプテスマの語源はバプテゾー(浸す)です。水の中に沈む時、キリストと共に古き自分に死に、水から出る時、キリストと共に新しい命に生きる。バプテスマを通して、私たちは「世に死に、キリストに生きる」者となります。「この世に対して死んだ者が以前と同じ生活を続けられるはずが無い」とパウロは言います。「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています」(6:6-7)。しかし現実には、水のバプテスマを受けても、私たちの日常生活は何も変わりません。この世に死んでいないからです。バプテスマを受けて私たちは罪から解放されたはずなのに、現実には罪を犯し続けていきます。ここで焦点になるのは、水のバプテスマを受けただけでは不十分であるということです。ニコデモに対してイエスは言われました「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)。水のバプテスマは神の恵みへの人間の応答であり、救済の第一歩です。しかし、本当のバプテスマとは、やがて与えられる、「霊のバプテスマ」です。この霊のバプテスマをいただくために、私たちは教会につながり続けます。

・私たちは罪を赦されましたが、体は元のままです。だから肉の欲はなお私たちを襲います。しかし、キリストが肉の欲に勝たれたように、あなたがたも「肉の欲と戦いなさい」とパウロは述べます「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(6:12-13)。

・私たちは「土の器」(2コリント4:7)です。土だから脆い、しかしこの器にはキリストという宝が入っています。かつては罪の支配の中にあったが、今は聖別され、新しい生が与えられた。そうであれば「キリストにふさわしい者」として生きなさいとパウロは教えます。その新しい生き方は「聖化」と呼ばれます。それは禁欲することではありません。何故ならば「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(6:14)。私たちの聖化は始まっている、私たちは律法の下にいるのではなく、恵みの下にある。私たちが為すべきことはこの恵みを受け続けて行くことです。その時、神が私たちを少しずつ清い存在へと変えて下さり、時が満ちて「霊のバプテスマ」が与えられる。そのことを信じて教会生活を続けて行くのです。

 

3.キリストにふさわしい者として歩む

 

・今日の招詞としてローマ6:22-23を選びました。次のような言葉です「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。スコット・マクナイト「福音の再発見―なぜ“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか」という本を読みました。「福音」が語られ、「救われた」人々が起こされているはずなのに、教会の命が衰弱し、多くの人が教会を離れていく現実があります。なぜ多くの受洗者が、バプテスマ後数年を経て教会を去ってしまうのか。イエスは「神の国は来た」との福音を語られ、多くの人が福音を信じて、神の国の建設のために働いていきました。ところが16世紀に宗教改革がなされ、信仰義認が説かれ、信仰があれば救われるとの理解が広がって行きました。著者はそこに福音に対する誤解が生じた、救いが個人化してしまったと語ります。「罪びとはいかにして救われるのか」が教会の中心課題となり、福音が救いのための手段となってしまったと著者は語ります。そしてその救いとは、「死後に天国へ行く」ことと誤解されたのです。

・しかし本来のバプテスマの意味は、「イエスの弟子になる」決意であったはずです。パウロは語ります「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」(ローマ6:3-4a)。そして「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(6:4b)。バプテスマを受ける最大の意味は、「キリストの弟子として今をどう生きるか」ですが、死後の救いを強調することによって、「今をどう生きるか」の視点が欠落してしまった。だから教会に行く意味がない、なぜならばすでに救われたからだと多くの人は誤解してしまった。ここに現代の教会の衰退の原因があると著者は強調します。

・新しい命に生きる生き方は「新生」と呼ばれます。今まで自分中心で生きていた人生が、「隣人と共に生きる」あり方に変えられて行くことです。具体的にはマタイ25章が教える生き方です。「あなたがたは、私が空腹であった時私に食べる物を与え、私が渇いていた時私に飲ませ、私が旅人であった時私に宿を貸し、私が裸の時私に着る物を与え、私が病気をした時私を見舞い、私が牢にいた時私をたずねてくれた」(マタイ25:35-36、新改訳)。「隣人と共に生きる」とはそういう生き方です。そのためには一度古い自分に死ななければなりません。イエスは語られます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。「一粒の麦のままに生きる」人生とは、自分の姿を残す生き方です。自己実現を目指す生き方ともいえます。その生き方は「一粒の麦」のままの生き方であり、多くの実を結ぶことはありません。他方、「一粒の麦として死ぬ」生き方は、イエスが十字架で死ぬことによって多くの命が生まれて行ったように、私たちもこの世に対して一度死ぬ生き方です。「人は生きているのではなく、生かされている」、そのことに気づいた時、人は新しく生れます。そして神の国建設のための働き人にされていくのです。

 

4.教会で共に生きる

 

・日本の教会では、バプテスマを受けた信徒の六割以上は、やがて教会から離れます。「神の国の訪れ」という福音がいつの間にか、「個人の救い」に変わってしまったからです。それは心理学的に言い換えれば「自我の業としての信仰」になります。精神科医の赤星進氏は「心の病気と福音」という著書の中で語ります「自我の業としての信仰とは、救われるために神を信じる信仰だ。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、私たちは教会の門をたたき、聖書を読み、バプテスマを受ける。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失う。なぜならば、自我の業としての信仰は、要求が受け入れられない時(癒されない時)には、崩れていく」。赤星氏は続けます「神の業としての信仰を持て」。「弟子たちは復活のイエスに出会うことによってこの信仰を与えられ、イエスのために死を恐れない者とされた。それは赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼だ。生まれたばかりの赤子は一人では生きていくことができず、一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていく。イエスが示されたものはこの信仰、神への基本的信頼の信仰ではないか」。

・私たちは、信仰告白をしてバプテスマを受けても、いろいろな出来事の中で、教会につまずき、教会を離れ、信仰を無くしてしまう存在です。自分の救いのみを求める「自我の業としての信仰」はいつか覚めるのです。しかし、キリストはいつでも帰還を待っておられ、キリストの弟子たちである教会はいつでも歓迎の準備をしています。今教会にいる私たちもかつては失敗し、挫折し、教会を離れたことがあるからこそ、教会を離れている友を「迎える」ことが出来ます。ヨハネ黙示録3:20は語ります「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」。教会は挫折を知り、それから立ち直ることを許された人々の群れなのです。

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