江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年5月21日説教(ローマ7:15-25、罪にある者の叫びと救い)

投稿日:2023年5月20日 更新日:

 

1.パウロのうめき

 

・人生にはどうにもならない不条理、自分の力だけでは解決の方向が見えない苦しみがあります。勤め先を解雇され、新しい職を探しても見つからず、どうしてよいのか分からずに悩んでいる人がいます。健康診断で癌が発見され、病状が進行して、もはや手術では対処できずに抗がん剤治療を受け、後遺症に苦しめられている人がいます。仕事や家庭のストレスからうつ病になり、外に出ることも出来ずに家に引きこもっている人もいます。病や貧困や死という限界状況にぶつかった時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。そのような時に、ローマ書は私たちに一条の光を示してくれます。何故ならば、ローマ書の著者パウロもまた苦しみの中から立ち上がった人だからです。彼はローマ書の中でうめきの叫びを上げています「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。何がパウロにこのようなうめきを上げさせたのか、そしてパウロはどのようにして、この地獄から解放されていったのか。今日はローマ7章を通じて、人間の根源的な問題、「罪と救い」の問題を考えて行きます。

・パウロはキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人でパリサイ派に属していました。裕福な家庭の出身で、エルサレムで著名なラビ・ガマリエルのもとで律法を学び、律法学者として立ちます。彼は自らを語ります「同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり,先祖からの伝承に人一倍熱心であった」(ガラテヤ1:14)。彼は「人は律法を守ることによって救われる」と信じ、その律法への熱心が、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせました。彼にとって、十字架で殺されたイエスを救い主として仰ぎ、その死と復活を通して救われるという信仰は許しがたいもの、異端、邪教としか思えなかった。だから彼は、邪教を撲滅するために、「家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に送って、教会を荒らし回った」(使徒8:3)のです。その彼がキリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、突然の回心を経験します。天からの光に打ちのめされ、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きます。彼は問います「主よ、あなたはどなたですか」。それに対して答えがありました「私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。

・使徒言行録にその次第が書いてありますが、具体的に何が起こったのかはわかりません。わかることは、パウロが復活のキリストに会い、キリストの迫害者から伝道者に変えられたという事実です。そのパウロがキリストに出会う前にどのような状況に置かれていたかを記すのが、このローマ7章です。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分、神の前に罪を責められる自分」でした。だからパウロは言います「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(7:15)。キリストの光に照らしだされた時、以前の自分の状態があからさまに見えて来ました。そこには、律法を守ろうとしても守りきれない自分がいたのです。

・だからパウロは嘆きます「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」(7:18-20)。「私の中に住んでいる罪」、肉の欲望、あるいは生存本能です。パウロは叫びます「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」。私たちは肉体をもって生きています。肉が求めるのは生存本能に基づく欲求です。食べる物がなく、死ぬしかない状況下では、肉は「他人のパンを奪っても食べよ」と求め、「貪るな」という霊の欲求は本能の前に死にます。「殺すな」という律法を知る者は、戦場で自分を殺そうとする敵と遭遇した時、彼を殺して苦悶します。敵を殺さない限り肉は生存しえないからです。愛もそうです。私たちが「誰かを愛する」とはその人を貪ること、その人から見返りを求めることです。しかし、「愛するとはその人のために死ぬことだ」という律法を与えられた時、私たちは人を愛せないことを知ります。

・「律法によって人は救われない」、これは律法を熱心に守ろうとした人だけがわかる真理です。律法は最終的には二つの言葉に要約されます。「神を愛しなさい」、「隣人を愛しなさい」。隣人を愛するゆえに「殺すな」とか、「盗むな」といかいう戒めが生まれて来ます。しかし人は隣人=他者に対して純粋な愛を持つことはできません。愛の中にどうしてもエゴイズム(生存本能)が生まれてくるからです。私たちの愛は相手の中に価値を見出すゆえに愛する愛です。だから相手に価値が無くなればもう愛することはできない。実際の結婚生活においても相手の価値が無くなれば、例えば夫が失業したり、妻が病気になれば、もう結婚生活の維持は難しくなる。三組に一組が離婚するという社会の現実は、結婚生活が「価値の取引」であることを示しています。ところが律法は相手に価値があろうとなかろうと愛することを求めます。その時、自分は律法を守ることが出来ない存在であることが明らかになってきます。

 

2.ルターも同じ苦闘を経験している

 

・宗教改革者マルティン・ルターもパウロと同じ経験をしています。彼は、若い時には、厳格な修道院生活を送っていました。沈黙を守り、毎日を労働と祈りで過ごしていました。聖堂内部では厳しい監督と統制のもとで告悔が進められ、罪についての話し合いが行われました。修道士たちは床にひれ伏し、悔い改めます。このような沈黙と苦行の中で、神に近づくことが可能になると教えられていたのです。しかし、ルターに平安は与えられませんでした。ルターは激しい罪意識を抱くようになります。彼にとって神は、怒りに満ちた、裁きの神でした。

・しかし、そのルターに、突然、光が与えられます。大学の塔の中にあった図書室で示されたゆえに、「塔の体験」と呼ばれています。その不思議な体験を通して、彼は「人間は苦行や努力による善行によってではなく、ただ信仰によってのみ救われる。人間を義とするのは神の恵みである」という理解に達し、ようやく心の平安を得ることができました。パウロと同じように、律法や行いを通して救いを求めた時、神は怒りの神、裁きの神として立ちふさがりましたが、すべてを放棄して神の名を呼び求めた時、人を救おうとされる恵みの神に出会ったのです。この新しい光のもとで聖書を読み直したルターの福音理解が宗教改革を導いていきました。

・ルターは著書・ローマ書講解の中で次のようにのべます「神はその力を示すためにパウロを立たせられた。なぜなら、神はその選んだ者に、彼らの無力を示し、そのことによって、彼らが自己本来の力を誇ることのないようにするために、御力を隠された」。神は私たちの目には隠されている。私たちが人間の努力で救いを見出そうとする時、私たちは怒りの神に出会い、絶望せざるをえない。その絶望の中で神の名を呼び始めた時に、私たちを救うためにその一人子を犠牲にされた愛の神に出会う。この愛の神との出会い、福音を通して人は始めて平安を得ることが出来るのだと。

・パウロとルターの経験が教えますことは、生まれながらの人は自分の限界を知らず、自分の力で何でも出来ると思う故に、その人に砕きが、あるいは苦難が、与えられるという事実です。ある人には、失業や事業の失敗という形で、別の人には病気や近親者の死という形で、あるいは夫婦や親子の不和が与えられる人もあります。そのような限界状況、あるいは不条理の中に置かれて、人は初めて自分の限界を知ります。人は許容範囲を超えた苦しみや悲しみが与えられた時、どう行為するのでしょうか。思いが自己に向かった時、「生きていてもしようがない」として自死を選ぶようになります。背教者ユダがそうでした。他方、私たちが怒りを他者にぶつけた時、「むしゃくしゃしていた、人を殺したかった。誰でもよかった」という犯罪行為になります。パウロやルターはこの怒りを、人ではなく神に向けるべきだと教えます。「神がこの不条理を与えられた」、「何故私をこんなに苦しめるのか」と怒りを神にぶつけた時に、初めて人は愛の神に出会います。ヨブ記の主人公がたどった道のりです。この最後の道こそ、人に罪からの解放を可能にします。

 

3.罪からの解放の喜び

 

・今日の招詞にローマ8:2-3を選びました。次のような言葉です「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:2-3)。

・キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。彼は律法を守ることによって救われようと努力していましたが、心に平和はありませんでした。この罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りの下にあることの恐れが、パウロを「律法を守ろうとしない」、罪人と思われたキリスト教徒への迫害に走らせたのです。しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られました。

・パウロは死を覚悟しました。ところがパウロを待っていたのはキリストの赦しでした。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられました。だから彼はローマ5章で次のように告白します「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった・・・私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5:6-8)。キリストは「不信心な」私、「神への反逆者」であった私のために死んでくださった。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わらざるを得なかったのです。

・キリストが命を捨ててまで救おうとされたのは、善人でもなく義人でもない、キリストの迫害者として憎んでも余りある自分のためであった。ダマスコで復活の主イエスにまみえた時、パウロはこの驚くべき真理によって打ちのめされ、彼はキリストの迫害者からキリストの伝道者に変えられていきます。そのことによって、彼はユダヤ人からは「裏切り者」として命を狙われるようになります。苦難が彼を訪れたのです。しかし彼はその苦難を喜ぶことができる者に変えられました。彼は宣言します「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(5:2-4)。

・注意すべきは、苦難や困難はある日、突然に解決することはありません。パウロが回心体験をしたのは紀元32年頃、アンティオキア教会で活躍の場が与えられたのは紀元42年頃です。パウロは10年間も成果の上がらない伝道生活を与えられたのです。忍耐の時を必要としたのです。この10年間の忍耐の時がパウロを、何があってもくじけない伝道者にしました。まさに「忍耐は練達を生み」、そして活躍の場が与えられて「練達は希望を生む」のです。この信仰は長い間の忍耐を経て与えられるのです。

・マザーテレサも苦しみの意味を別の言葉で表現しています「私たちは皆、多かれ少なかれ精神的、肉体的になんらかの苦しみを体験してきます。それは主の十字架を知るために各自に恵まれた自分の十字架なのです。私たちの他人に対する愛はまず理解から始まります。他人の気持ちを理解したとき同情心が起こり、それが愛に発展します。他人を真に理解するには自分も他人と同じような立場にたつこと、すなわち他人の苦しみを経験しなければなりません。だから私たちが試練を受けることは神の恩寵です」。神の愛を信じることが出来るようになった時、苦しみもまた恵みとなっていくのです。パウロは語ります「今や私は、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たしています」(コロサイ1:24)。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.