江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年10月1日(イザヤ2:1-5、神の平和を求めて)

投稿日:2023年9月30日 更新日:

 

1.戦争に明け暮れた時代のイザヤの預言

 

・今週から私たちは3カ月間にわたってイザヤ書を読んでいきます。イザヤ書には三つの預言が合本されています。1-39章(第一イザヤ)は、紀元前700年頃を生きたイザヤの預言であり、アッシリアの侵略に翻弄される国家危機の中で語られています。40-55章(第二イザヤ)は、それから150年後、国が滅ぼされ、バビロンに捕囚となった民に対しての解放の預言が為されます(前540年頃)。最後の56-66章(第三イザヤ)は捕囚から解放され、エルサレムに帰還した後の預言(前520-500年頃)です。第一、第二、第三イザヤとの名称は、名前がわからないために便宜上つけられた名前ですが、基本的な思想は統一されており、イザヤ学派というべき預言者の系譜が流れているため、三つの預言が合本されてイザヤ書とされています。

・第一イザヤの時代はアッシリア帝国との攻防の時です。ユダの王はウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代です。前701年、アッシリア王センナケリブはパレスチナに侵攻し、ユダの町々を占領し、エルサレムを大軍で囲こみました。イザヤ1章の預言はその時代背景の中で語られています。兄弟国イスラエル王国は既にアッシリアにより滅ぼされ(紀元前722年)、ユダ王国自体もアッシリアの軍事的圧力の中で、いつ国が滅ぼされてもおかしくない時代の中で預言されています。そのイザヤの預言は新約聖書に最も多く引用されています(二番目が詩篇です)。初代教会の人々は自分たちの置かれた危機的状況を、同じ状況下にあったイザヤ書を通じて理解しようとしたのです。それは私たちも同じです。私たちもまたイザヤの言葉を、私たち自身の問題を考える手掛かりとして、読んでいきます。

・今日私たちはイザヤ2:1-5を中心に読みます。中核となる言葉は2章4節です「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。人類は繰り返し戦争を行って来ました。殺し合いを止めようとしても止められませんでした。それは人間の中にある根源的な罪のためです。その罪を贖い、殺し合いを止めさせ、真の平和を打ち立てるのは人間には不可能であり、だから神の平和を待ち望むとイザヤは語ります。イザヤ書2章4節はニューヨークの国連ビルの土台石に、言葉が刻み込まれていることでも有名です。二度の世界大戦を通して、世界は苦しみ、血を流しました。「もう、戦争は止めよう、武器を捨てよう。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌としよう」と言う理想を掲げて、国連は設立されました。しかし、現実の世界では、中東や朝鮮、ベトナムで戦争が相次ぎ、さらにアフガン、イラクで殺し合いがなされ、現在でもロシアとウクライナの間で戦火は続いています。なぜ人間は戦争を止めることができないのか、それがイザヤ書の大きな問いかけであり、現代の私たちの問いでもあります。

・イザヤが預言した紀元前700年ごろ、中東ではアッシリアが世界帝国の道を歩んでいました。彼らはシリアを占領し、北イスラエルを滅ぼし、今は圧倒的な軍馬をもってユダ王国に迫っています。イザヤ1章7-9節の記述はその時代を背景に語られています。「お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で、異国の民が食い尽くし、異国の民に覆されて、荒廃している。そして、娘シオンが残った。包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように、きゅうり畑の見張り小屋のように。もし、万軍の主が私たちのために、わずかでも生存者を残されなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう」(イザヤ1:7-9)。

・ユダヤは国の大半を占領され、エルサレムがかろうじて残され、亡国の瀬戸際にありました。ユダの民はアッシリアからの救済を願って、エルサレム神殿に多くの捧げものをしましたが、主はその奉納を拒否されるとイザヤは預言します。「お前たちのささげる多くの生贄が私にとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、私は飽いた・・・誰がお前たちにこれらのものを求めたか、私の庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな・・・それは私にとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた」(イザヤ1:11-14)。イザヤは続けます「主が求められるのは捧げ物や儀式ではなく、正義である。お前たちの手は血で汚れている」(イザヤ1:15-17)。

・人々はアッシリアに対抗するためにエジプトの援助を求めますが、イザヤはこれに反対します。エジプトもアッシリアも神の支配下にある人間に過ぎない。何故「鼻で息をしているだけの者に頼るのか」(2:22)。しかし人々はイザヤの言葉を聴かず、国内は混乱します。イザヤは現実の世界政治の中に主の働きを見ました。世界の統治は武力を誇るアッシリアやエジプトによってなされるのではなく、世界を支配される主によって為される。アッシリアも「神の怒りの鞭」(10:5)に過ぎない。だから神の国が地上に成就する終わりの日に諸国民は、こぞってエルサレムに集い、主の平和を求めるだろうとイザヤは預言します。その預言が今日の聖書箇所イザヤ2章です。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」(2:2-3)。

 

2.剣を鋤に打ち直せ

 

・終末預言は現在に対する絶望から来ます。現実の政治に何の展望もなく、絶望する故に、問題の解決を神に求めます。イザヤは語りました「時が来れば、主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)。現代の私たちは二度にわたる大戦で傷つき、平和を求めて国連を形成し、そのビルの土台石にイザヤ2:4を刻みました。しかし言葉を刻んだだけでは平和は来ません。混乱は続きます。その中であなたたちは「為すべきことを為せ」とイザヤは語ります。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2:5)。

・イザヤの平和預言は戦争に負け、国土が焼け野原になった状況の中で歌われています。その状況は1945年の日本に酷似しています。日本は戦争に負け、国土は焼け野原になりました。もう兵器はいらなくなり、砲弾や武器を作るために兵器工場に集められた鉄が鋳られ、釜や鍬が作られました。そして新憲法が発布されます。新憲法は9条1項において「戦争の放棄」を宣言し、9条2項で「いかなる軍隊も武力も保持しない」と宣言します。世界で初めての非武装中立を宣言する平和憲法が作られました。これはイザヤがまさに夢見た出来事です。この憲法は日本人の発意によって出来たものではなく、占領軍アメリカの中の理想主義的キリスト者たちによって起草されたものです。しかし、戦争の悲惨さを、身をもって知った多くの日本国民は、この憲法を歓迎し、今日まで自分たちの憲法として守って来ました。

3.力の平和か、神の平和か

 

・イザヤの時代、多くの人びとは、イザヤの預言は非現実的であると考えて来ました。北には強大な軍事力を誇るアッシリア帝国があり、南には豊かな穀倉地帯を基盤とするエジプト帝国があります。その中で小国イスラエルが生き残るためには、両帝国のパワーバランスの中で外交政策を考えるしかなく、イスラエルも相応の武力を持って自衛すべきだとの考え方です。現実の政治はその方向で動いていました。人々は馬や戦車を用意し、アッシリアに貢物を捧げながら、エジプトとの軍事同盟も模索し、城壁も強固にして来ました(2:7)。日本も平和憲法を制定した後、武力を持たない不安に耐えられず、1954年に自衛隊を発足させ、アメリカと軍事同盟を結び、今日では世界有数の陸・海・空軍を保持しています。そしてアメリカの核の傘の下で、国の安全を守ろうとしています。

・今日私たちはイザヤ2章の預言を学んでいますが、同時にヨエル書に全く反対の預言があることも忘れてはいけません。ヨエルは言います「諸国の民にこう呼ばわり、戦いを布告せよ。勇士を奮い立たせ、兵士をことごとく集めて上らせよ。お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、私は勇士だと言え」(ヨエル4:9-10)。ヨエルは国を守るために戦えと人々を鼓舞しています。イザヤと真逆なことをヨエルは語ります。何故でしょうか。ヨエル書は紀元前400年頃に書かれた預言書です。イザヤ書から300年がたっています。ユダ王国はアッシリア時代にはかろうじて国を保つことが出来ましたが、次の支配者バビニアによって国を滅ぼされ(前587年)、その後、バビロン捕囚という苦しい時を過ごします。ユダの民はバビロニアがペルシャに滅ぼされた時に帰国を許され、国の再建にかかります。かつてのイスラエル統一王国はダンからベエルシェバまでの領土を持つ大国でしたが、捕囚後には、北のガリラヤやサマリアは失われ、南のエドムやモアブは独立し、ヨエルの時代には領土はエルサレムとその周辺だけになってしまいます。現在の日本に例えれば、第二次大戦の敗北によって北海道と東北がロシアに占領され、九州と中四国が中国の領土になったと仮定すれば、ヨエルの置かれた状況と同じになります。領土の大半が失われた時、愛国者たちは領土の回復を求めて活動します。現代のウクライナがロシアによって奪われたクリミヤ半島の奪還を目指して戦うのと同じです。ヨエルは、「神は諸国から軍勢を集め、領土の回復をして下さる。だからおまえたちも鋤を剣に、鎌を槍に打ち直して、戦いの準備をせよ」と励ましたのです。私たちは侵略者に対抗するために、全国民に「武器を取れ」と叫ぶウクライナの指導者を見て共感し、ヨエルの考え方が現実に即していると思うでしょう。

・しかし、イザヤはこれを否定します。ユダヤの国はアッシリアが強くなるとアッシリアになびき、エジプトが強くなるとエジプトになびきました。その結果、国は滅びました。それは軍備を強化することによって国民に誤った安心感が生まれた故です。しかし小国がいくら軍備を強化してもそれは世界帝国の軍隊の前では意味がない。イザヤの信仰は世界情勢の現実認識の上に立てられたものでした。だから彼は言います「ヤコブの家よ、主の光の中を歩こう」(2:5)。武力に武力で対抗する方法では、平和は来ない。武器を捨てること以外、国が生き残る道はない。だから「主により頼んで武器を捨てよう」とイザヤは言いました。

・このイザヤの心を継承されたのがイエスです。今日の招詞にマタイ5:5を選びました「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。「柔和な人々」とは、腕力や政治権力、経済力や軍事力を使って無理やり人に言うことを聞かせようとしない人のことです。世界にはものをいうのは「力」だという信仰が根強くあります。「武器をより多く持つ者が勝つ」との考えが主流であるために、世界には攻撃と反撃、テロと報復の悪循環が絶えません。「やられたらやり返せ」、多くの「現実主義者」は、この世界では「軍馬の思想」のみが有効な在り方だといいます。しかし、歴史上、軍馬の思想で平和が達成されたことはありません。軍馬の思想を極限まで推し進めた強国アッシリアはバビロニアに滅ぼされ、バビロニアもペルシャに滅ぼされ、ペルシャもギリシャに、ギリシャもローマに滅ぼされます。そのローマ帝国でさえも今では遺跡が残るだけです。

・他方、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とせよ」と語ったイザヤの言葉を受け入れてきたイスラエル民族は今日まで生かされています。「やられてもやり返さない、一方的に争いを止める、そういう方法でなければ本当の平和は来ない」、聖書が私たちに教えるのはそうであり、それが最も現実的なあり方なのだと思います。柔和なイエスがこの世界の歴史の中に誕生したということは、新しい世界が始まったということです。「殴られても殴り返さない。踏まれても踏み返さない」、それこそが平和を生む唯一の方法であり、それを体現するイザヤ2章の預言は2700年後の今日も真理であり、日本国憲法9条の「戦争放棄」の考え方は、イザヤ2章に基づいて制定された条文だと知る時、私たちはそこに神に摂理を見ます。この神の知恵を現実に生かすためには、忍耐と知恵とそして信仰が必要です。その信仰を持てと私たちは励まされています。

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