江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年9月24日説教(創世記12:1-9、祝福の始まり、アブラハム物語)

投稿日:2023年9月23日 更新日:

 

1.信仰の決断をしたアブラハム

 

・7月から私たちは創世記を学んでいきます。創世記は1-11章が原初史と言われ、そこに記されているのは、「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」歴史です。人は神に背き、離反しました。しかし、神は人を見捨てられません。神は新しい救いの業とし て、一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通して人々を救うことを計画されました。それがアブラハムの召命に始まったと創世記の著者は告白します。
・創世記12章1節は記します「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。遊牧民は牧草地を求めて移動生活をしますが、移動の範囲は、水と草が確保されていることが条件です。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しています(11:31)。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれ、神の創造の業が忘れ去られていた。神は創造の秩序の回復のために、アブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住しました。テラはそこで死にます。テラの息子アブラハムに「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがありました。
・ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草がある限り、羊や山羊を養って生きる遊牧民の生活は保証されています。しかし、今回の神の示しは、ユーフラテス川から離れて砂漠を超え、カナンに行けというものでした。そこはメソポタミヤの遊牧民にとっては未知の地、水や草が保証されない地、盗賊や野獣の危険に満ちた地でした。神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」 と言われました。「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12:2-3)と言われます。「約束を信じて、一歩を踏み出せ」と言われた。彼はその時75歳、人生の盛りは過ぎていました。現代でいえば老年期にあたります。妻サラは不妊で子供もありません(11:30)。アブラハムの人生はもう終わったようなもの、まもなく死を迎える、その時に彼は召されたのです。彼は神の言葉に従い、カナンを目指して歩き始めます。
・この一歩が、世界史を変える一歩になります。もしアブラハムがこの時の呼びかけに応えなければ、イスラエルは約束の地に到達せず、ユダヤ民族の形成もなく、当然イエス・キリストも生まれず、その結果教会も生まれなかったでしょう。私たちが今日ここに礼拝に集まることもなかったかもしれない。アブラハムのこの一歩はそれほど大きい意味を持つのです。だからこそ、アブラハムはユダヤ教においても、キリスト教においても、「信仰の父」と呼ばれます。

 

2.信仰が揺らいだアブラハム

 

・アブラハムは一族郎党を引き連れて、故郷を離れ、カナンを目指しました。長い旅の末にアブラハムはカナンの地シケムに入りましたが、そこにはすでにカナン人が住み、城砦を築いていました。主はアブラハムに言われます「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7a)。子もなく、先住民を制圧する武力も持たないアブラハムに、「この土地を与える」との約束が与えられました。アブラハムはその約束を信じました「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」(12:7b)。しかし、シケムには強力な武器と城砦を持つ先住民がいて土地を獲得することは無理でした。彼はシケムを離れてベテルに南下します。「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(12:8)。南部では自分も土地を持てるかもしれないと思ったからです。しかし、ベテルにも居場所はありませんでした。先住民が住んでいる土地に寄留者一族が入り込む余地はなかったのです。だから彼は、誰も住まない砂漠のネゲブに居を移します(12:9)。失望の連続の中で、彼は「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の約束を疑い始めているのです。

・約束の地に来たアブラハムを、次に迎えたものは飢饉でした。旱魃のため、家畜に食べさせる草も水も手に入れることができません。「せっかく約束の地に来たのに、何故主はこのような災いを下されるのか」、アブラハムは「私が養う」という主の約束を信頼することができず、食を求めてエジプトに下ります。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」(12:10)。これまでアブラハムは、行く先々で祭壇を築いて主を礼拝しています。しかしエジプト下りについては、「主のために祭壇を築いた」という表現はありません。おそらくは一族と家畜を守るために、アブラハムが自分の判断でエジプト行きを決めたのでしょう。この時、アブラハムの中で何かが崩れました。彼はもはや「主に頼れない」と思い始めているのです。

・神の庇護を信じられない者は、他者を恐れます。エジプトに行く道すがら、彼は妻サラが際立って美貌であることが気になります(召命の時、アブラハムは75歳、サラは65歳とされていますが、旧約の年齢の数え方は現代とは異なりますので、今日的には、アブラハムは40代、サラは30代であったと推測されます)。妻が美しいことは弱肉強食の世界では危険です。強い者が力ずくで妻を奪い、夫を殺す可能性があるからです。アブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私は・・・あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。
・アブラハムの懸念は現実となります。エジプト王はサラの美貌に目を留め、彼女を側室として迎え入れます。アブラハムはサラの兄として、王から多くの贈り物を与えられ、裕福になります。「信仰の父」と称えられた人が、実は妻をエジプト王の側室に売って身の安泰を保ち、金持ちになったのです。それは創世記3章で見たアダムの姿と同じです。愛した妻が過ちを犯し、その災いが自分に及びそうになると彼は言います「あなたが私と共にいるようにしてくださった女 が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。「私が悪いのではない。妻が悪いのです」とアダムは妻を見捨てました。アブラハムも妻を見捨てて、身の安全と繁栄を図ろうとしたのです。

3.信仰の揺らぎと悔い改め

 

・アブラハムは信仰の偉人と称えられますが、彼もまた聖人ではなかったことを聖書は隠しません。約束の地に来て、住民が城砦を構え、強大であることを知れば、身の危険を覚えて砂漠のネゲブに隠れます。飢饉でエジプトに下れば、自分の妻を利用して身の安全を図ります。その地でアブラハムは神から問われます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。ヘブル語「マー・ゾート・アッシータ」、かつて蛇に騙されて禁断の木の実を食べたエバに語られ、妬みのために自分の弟を殺したカインに呼びかけられた言葉です。取り返しのつかない過ちを起こしたことを知らされたアブラハムは、恥ずかしさで下を向きます。彼も私たちと同じ罪人、同じ過ちを犯す人間だったのです。ここにおいて、アブラハムの生涯は私たちと関わりを持つものになります。アブラハムの最初の旅立ちは、神の呼びかけに答えて「行く先を知らずに出かけた」時でした(12:4)。冒険者としての旅立ちです。その彼が、エジプトで罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰り、そこに祭壇を築き、主の御名を再度呼びました(13:4)。

・今日の招詞に創世記13:3-4を選びました。次のような言葉です「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。新共同訳は「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」と訳しますが、口語訳では「彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」とあります。アブラハムはエジプトからカナンに戻ると、最初に主を礼拝したのです。

・アブラハムは主を信じきることができずにエジプトに行き、その地で罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰ってきました。そして最初にしたのは、主の前に悔い改めることでした。自分が罪を犯したのに主は見捨てず救って下さった、それを知った時、彼の信仰者としての新しい人生が始まったのです。聖書で信仰者と呼ばれる人は、決して品行方正の人ではありません。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を自分のものにしています。ペテロはイエスの裁判の時、そんな人は知らないと否認しました。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者でした。しかし、主はそのような罪人を用いて御業を行われるのです。悔い改めた罪人は自分の罪、弱さを知る故、他者を赦すことができます。罪の赦し、これこそ旧新約を通じた福音です。

・哲学者の森有正は講演の中で次のように述べています「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはない」(森有正「土の器に、アブラハムの信仰」p.21)。エジプトのアブラハムは、自分の妻を利用して身の安全を図りますが、そのアブラハムに神は問われます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。アブラハムは「他人には知らせることができない心の一隅」で主に出会ったのです。

・私たちが順調な時には、あるいは自分の力で生きていると思っている時には主に出会いません。しかし、過ちを犯し、砕かれた時に初めて、主の御名を呼びます。その時、私たちは主と出会います。私たちは災いや苦難を通して自分の真実な姿を知り、神を求めます。その意味で、災いや苦難は、神から与えられる祝福であり、私たちは涙を通して救われていくのです。アブラハムは、ハランでの召命、カナンでの信仰の揺らぎ、エジプトでの罪と恥ずかしさを通して、信仰者として立てられて行きました。創世記12章前半は信仰者アブラハムの物語ですが、12章後半は罪人アブラハムの更生の物語です。そしてそのどちらもがアブラハムなのです。創世記12章は7節までではなく、20節まで読まないと、本当のメッセージは生まれないのです。

・人が動物を殺してその肉を食べて生きるように、私たちは罪を犯さずには生きていけない存在です。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されましたが、主は二人に革の衣を与えて保護されます(3:21)。弟を殺してエデンの東に追放されたカインにもしるしが与えられ、敵から守られます(4:16)。アブラハムにもこれから生きて行くのに必要な財産が与えられ、新しい旅立ちが守られます(13:2)。私たちの信仰生活もそうです。バプテスマを受けても何も変わらない、主日礼拝を守っても日常生活は変えられない、むしろ罪を犯し続ける。それにもかかわらず主は共にいてくださった、そのことを知った時、私たちの回心が生まれ、本当の信仰者となっていくのです。アブラハムの物語は私たち一人一人が体験する物語なのです。

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