1.見失ったものを見つけ出した喜び
・今日はルカ15章にあります三つの譬えについて考えます。通常はイエスの喩えを15:1-10まで区切り、「見失った羊と無くした銀貨の喩え」の二つに絞って宣教されます。しかし、次の放蕩息子の譬えまで加えてまとめることで、譬えの意味がより深く伝わると思えます。三つの譬えに共通しているのは「見失ったものを見つけ出した喜び」です。
・ルカは記します「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:4-7)。
・ルカは譬えを、徴税人や罪人がイエスの話を聞こうとして来た時に、ファリサイ人や律法学者が「罪人と食事を共にする」(15:2)と批判し、イエスが反論された文脈の中で紹介しています。ここで「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」とは、ファリサイ人や律法学者を指しています。「自分たちは正しい」、と考える人々は、イエスの呼びかけを拒否し、悔い改めようとしません。そのようなあなた方よりも、「悔い改めた罪人=失われた羊」を父なる神は喜ばれるのだと語られています。ですからイエスは「九十九匹を危険な野原に残して」、「失われた羊」を探しに行くと言われています。
・「ローマ人の物語」を書いた塩野七生さんは語ります「迷える一匹の羊を探すのは宗教の問題であり、九十九匹の安全をまず考えるのが政治の課題である」。その通りだと思います。この世は多数、九十九匹を大事にする社会です。民主主義とは多数を基本にする制度であり、政治の目標は全ての人に機会を開き、自由を保障することです。しかし、その過程で切り捨てられる人がいる。全ての人に成功の機会があることは、全ての人に失敗の機会もあることを意味します。成功者を称える社会では失敗者は省みられない。しかし教会は、「九十九匹の安全を損なっても、見失った一匹の羊を探しに行く場所だ」とルカは強調します。
2.「見失った羊」の喩えと教会
・教会はイエスの委託を受けて、イエスの業を継承するために地上に立てられました。教会論の文脈の中でこの譬えを読めば、九十九匹の羊とは特段の問題を抱えない教会員で、一匹の羊ははぐれた信徒や迷える人です。羊は群れを離れては生きていくことは出来ません。だから、捜しに行く。教会はイエスから神の言葉を預かっており、この言葉なしには、人は生きていくことが出来ない。「人はパンのみで生きるにあらず」、神の言葉は私たちの霊の糧です。食べなければ心が死んでしまう。しかし、ある人々は教会を離れていきます。ここに命の言葉があることを、私たちが十分に証し出来なかったためです。
・ある人が教会につまずいて他の教会に移ることがあっても良いと思います。しかし、往々にして、一つの教会につまずいた人は、他の教会に行かずに礼拝から離れてしまう。そのことは命にかかわる問題です。イエスは言われました「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15:5-6)。教会から離れる、信仰から離れることは、本当は命にかかわる大問題なのです。
・ですから、教会に来ることの出来なくなった人々のために、私たちは最大限のことをなし、手段を尽くして捜しにいきます。どうしても見つからない時、私たちは共に集まり、その人のことを覚えて祈ります。地上の全ての扉は閉まっても、天の扉は開いているからです。私たちはその人のことを神に委ねて祈ります。初代教会の人々は、共に集まり、心を合わせて熱心に祈った。ここに教会の原点があります。
・しかし、いなくなった羊が教会の群れに戻された時には、現実の教会の中に緊張が走ります。異質な存在が群れに戻ったからです。礼拝時に子供が騒いでイライラする人もいれば、自分の母教会に比較してこの教会は何だと批判する人もいます。異なる生まれ、異なる信仰生活をして来た者の集まりである教会においては、教会に批判的な人も、指導者に賛同できない人も出てくるでしょう。多くの教会で、牧師への賛否を巡って教会分裂が起こります。私たちの教会もそういう時を経験しました。その時何を為すべきか、分裂した教会が再生していく道は、多くの場合、祈祷会を通してです。残された少数の者たちが集い、「先生、先生、おぼれそうです」(ルカ8:24)と主に叫ぶ時、主は私たちを叱られます「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(8:25)が、それでも助けてくださいます。そして時間の経過と共に新しい人が与えられ、新しい教会(エクレシア)が復活します。教会は弱められても死なない、これは多くの人が体験する経験的真理です。
3.「無くした銀貨」の喩え
・次の喩えは「失くした銀貨の譬え」です。「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」(15:8-9)。ドラクメ銀貨はギリシャの貨幣で、一ドラクメは一デナリオンに等しい価値があり、一デナリオンは労働者の一日の賃金でした。そのドラクメ銀貨十枚をセットにし、結婚祝いとして新婦に贈る習慣がありました。贈られた女性は、この銀貨十枚を紐でつなぎ、ネックレスにして肌身離さず身に着けます。それは身を飾るだけでなく、病気などの不時の出費に備える備えの意味もありました。
・この十枚セットの銀貨の一枚を女性は紛失しました。彼女は懸命に捜しました。当時のユダヤの家は暑さを防ぐために窓を小さくしてあったので、昼間でも室内は暗く、そのうえ床には藁が敷いてありました。藁敷きの床に、銀貨のように小さいものが紛れこむと、捜し出すのは困難でした。彼女は銀貨一枚のために、普段は使わない高価な油でともし火をつけ、床を隅々まで掃き出しました。
・努力の甲斐があって、女性は銀貨を見つけました。その時の彼女の喜びをルカは伝えています。「友達や近所の女たちを呼び集めて『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」。ルカは失った銀貨を見つけた婦人が、「一緒に喜んでください」と喜ぶさまを強調しています。イエスは譬えを「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(15:10)と締めくくります。先の羊の例えと同じように、「見失ったものが見出された喜び」がここにあります。
4.失われた兄弟の譬え
・今日の招詞にルカ15:32を選びました。次のような言葉です。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。見失った羊と無くした銀貨の喩えの後に、放蕩息子の喩えが語られます。物語は「ある人に二人の息子がいた」という言葉で始まります。弟息子は堅苦しい父と兄との生活にうんざりして家を出て行く決意を固め、財産の分け前を要求し、遠い国に旅立ちます。彼はお金を湯水のごとくに浪費し、使い果たします。その時飢饉が起こり、彼は食べるものに困り、ユダヤ人にとって不浄な豚のえさでさえ食べたいほど飢えに苦しみます。落ちるところまで落ちた時、弟息子は我に返り、父のところに帰ろう」と決意します。父親は息子の身を案じ、帰って来るのを待っていました。その息子が帰って来ます。息子は謝罪の言葉を口にし始めますが、父親はさえぎって使用人に命じます「いちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」。父親は放蕩息子の帰還を無条件で喜び迎えます。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから」(15:24)です。
・物語後半の主役は兄息子です。兄は弟が家を出た後も父の元に残り、仕事を手伝っていました。彼は畑から帰り、騒ぎを聞いて弟が帰ってきたことを知りましたが、父親が弟を歓待することを許せず、家に入ろうとしません。父親が兄の所へ来た時、兄の不満が爆発します「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。兄は批判を通じて、自分は我慢したのだと無意識に告白しています。彼は父親に忠誠を尽くしましたが、それは父を愛するためではなく、見返りとして財産をもらうためだったのです。ここにおいて、兄もまた「失われた人間」であることが明らかになります。その兄息子に父親が言うのが招詞の言葉です「お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。
5.三つの譬えが語るもの
・見失った羊を見つけた羊飼いは「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい」と言いました。銀貨を見つけた女は「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言いました。失った子を見出した父親は「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言いました。ルカ15章を貫いているのは、見失ったもの、なくしたものを見つけた喜びです。イエスの話を聞きに来た徴税人や罪人は、イエスにとって、「見失ったが見つけ出された羊であり、見失ったが見つけ出された銀貨であり、死んでいたのに生き返った息子」だったのです。そして「見いだせなかったもの」は、自分が罪人であることに気づいていないファリサイ派や律法学者の人々でした。
・ファリサイ派たちは、自分たちは正しく生きていると思いこんでいます。しかし、神の視点からから見れば、彼らこそ「迷いの中で滅びよう」としている。そのことに気づいていない彼らに向けて、三つの喩えが語られたのです。私たちは自分をどちらの側に置くのか。自分が「迷った羊、失われた銀貨、失われた息子」だと思う人は、探し出してくれた神に感謝し、新しい人生を生きる。しかし、私たちが、「自分は人よりましだ、教会に所属し、戒めを守っている」と思えば、私たちは「失われた存在になる」のです。
・私たちの社会は敗戦後、民主主義を拠り所として、何事につけても多数決、一匹よりも九十九匹を大切にする社会となりました。政治もそれに従い、全ての人に機会を与え、幸福を追求する自由を保障することを目標としています。ただし、それは建前です。全ての人に成功の機会があるということは、逆に全ての人に坐折という厳しい現実があることも意味します。そして、いつの間にか、成功者を称え、挫折者を見捨てる社会となりました。そのために、この民主主義社会の中で、三万人を越える自殺者を毎年生んでいます。この社会の挫折者は、「迷える羊、失われた銀貨、失われた息子」に喩えられるのではないでしょうか。イエスは、父なる神は「一匹の羊、一枚の銀貨、一人の息子」を見捨てず、「見つかるまで捜し求められる」方であり、「見つけられた者は、見つけ出してくださった神に感謝し、喜びを分かちあう」と説かれています。教会は多数決で決定するのでなく、少数者の意見を大事にする場所なのです。
・イエスは、悔い改めた「徴税人と罪人たち」を、「迷い出た羊、見失った銀貨、放蕩息子」に喩え、彼らが悔い改めて帰るのを神は喜ばれるとファリサイ派や律法学者らに教えました「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)と。教会はこのイエスの教えを使命としています。この三つの喩えは私たちに重い問いかけをしています。あなたがたは、教会から離れて行った人たちを、「一匹の羊、一枚の銀貨、一人の息子」として、「見つかるまで捜し求めているか」、「彼らのために祈り続けているか」、「彼らの生死を気にしているか」。イエスといえる教会を形成したいと願います。