江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年3月5日説教(ルカ18:1-8、求める者には与えられる)

投稿日:2023年3月4日 更新日:

 

1.「やもめと裁判官」の譬え

 

・ルカ18章「やもめと裁判官の譬え」は、熱心に求める者には神は応えて下さる譬えとして語られています。ルカは記します「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに譬えを話された。ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては『相手を裁いて、私を守ってください』と言っていた。」(ルカ18:1-3)。やもめが裁判官に訴えたのは、相続されるべき夫の財産が他人にかすめ取られたため、裁判によって自分の権利の回復を願ったのでしょう。

・やもめの裁判を担当した裁判官は「神を畏れぬ、人を人と思わぬ」人でした。裁判官は当初はやもめの訴えを無視していました。訴えをかなえても賄賂や報酬を彼女から期待できないからです。それでも何度も何度も来られたらうるさくてたまらない。そのために彼は訴えを聞くことにします。イエスは語られます「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、私をさんざんな目に遭わすにちがいない」(ルカ18:4-5)。

・裁判官は本来、正しい裁判を行う責務を持っています。申命記にその規定があります「すべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁きをもって民を裁かせなさい。裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである」(申命記16:18-19)。しかし現実には、裁判は賄賂や人脈で左右されるようになります。日本でも刑事事件の有罪率は99.9%で多くの冤罪が見逃されていると言われています。裁判の公正さが確保されていない現実を踏まえた譬えが語られています。

・イエスは言われます「不正な裁判官でさえ、必死に求める者には便宜を図る。そうであれば、公正な裁判官である父が祈りを聞かれないことがあろうか」。イエスは続けて言われます「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている、選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(ルカ18:6-8)。やもめは貧しい者の象徴として、神も人も畏れぬ裁判官に立ち向います。彼女には裁判官を動かすお金も、知己もありません。彼女は持ち前の執拗さで裁判官を動すしかありません。イエスが教えたかったのは、神も人も畏れぬ裁判官が、やもめの熱心さに根負けして、やもめに有利な裁判をするとしたら、慈愛の神がその子らの祈りを聞いてくださらぬはずはないということでしょう。

 

2.真夜中にパンを求める友人の譬え

 

・イエスは熱心に求める時、神は応えて下さると人々に語られ、その例として、「真夜中の友人の譬え」を語られます。ルカ11章にあります。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、真夜中にその人の所へ行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友だちが私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」(ルカ11:5-7)。

・それでもあきらめないで求め続けた時、その願いはかなえられるとイエスは語ります。「しかし、言っておく。その人は友だちだからということでは起きて何か与えることはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(ルカ11:8)。イエスは言われます「神の救いを得ようと志す者は、閉じられた門が開かれるまで、門を叩き続けよ。門を叩き、道を探し、救いを求める者には神は報いて下さる」と。そして聖書の中核の言葉が語られます「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11:9-10)。

 

3.熱心に求めたバルティマイ

 

・熱心に求めれば願いはかなう例がマルコ10章(ルカ18章)にもあります。盲人バルティマイの物語です。イエスたちがエルサレムへの旅をしておられた時、エリコの町まで来ました。このエリコでイエスは盲人バルティマイと出会われます。マルコは記します「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされた時、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と言い始めた」(10:46-47)。バルティマイは目が見えないため、物乞いをしていました。障害者は市内に入ることを禁じられていましたので、彼はエリコの城門の外にいて、城門を出てこられるイエス一行と出会いました。バルティマイはイエスの評判を聞いています。「この人ならば病気を癒してくれるかも知れない、この時を逃したらもう癒される機会はない」と思うから必死に叫びます。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と。弟子たちは大声で叫ぶ物乞いを叱りつけます。

・しかしイエスは彼の求める声を聴かれました。イエスは立ち止まって「あの男を呼んで来なさい」と言われます。弟子たちがバルティマイのところに行き、「立ちなさい。先生がお呼びだ」というのを聞いて、バルティマイは「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに」来ました(マルコ10:50)。周りの人がバルティマイを「うるさい、邪魔だ」という中で、「この方は自分に目を留め、自分を呼んでくださった」、そのバルティマイの喜びが私たちにも伝わってくるような記述です。イエスはバルティマイに聞かれます「何をしてほしいのか」。バルティマイは答えます「先生、目が見えるようになりたいのです」(10:51)。彼はイエスを「ラボニ」と呼びます。単なる先生(ラビ)ではなく、私の先生(ラボニ)、バルティマイはなんとか視力を回復してもう一度人生を生き直そうと願っていた、この方ならばそれを可能にしてくださる、その切なる願いが「ラボニ」という呼びかけの中にあります。

・イエスは彼の信仰に感動されました。そして言われます「あなたの信仰があなたを救った」(10:52)。必死の思いは伝わり、その願いは適えられました。バルティマイは叱られてもけなされても、「私を憐れんでください」とイエスにすがりました。「この方なら何とかしてくださる」という必死の思い、あきらめない信仰が救いをもたらします。彼の叫び「イエスよ、憐れんでください」が、有名な祈祷の言葉「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」として記憶されるようになります。

 

4.どこまでも求めていく信仰

 

・今日の招詞にマタイ7:7-8を選びました。次のような言葉です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。私たちはバルティマイのように直接イエスにお目にかかって願い事をするわけにはいきません。しかし毎日の祈りで求め続けることは出来ます。イエスの言葉は「あきらめずに求め続ければ、父なる神は必ず聞かれる」という励ましになっています。「誰でも」です。この「誰でも」の故に、何も持たない無資格のバルティマイが救われたのです。イエスがバルティマイに求められたのは信仰だけでした。ここに福音があります。また「求めなさい。そうすれば、与えられる」、どこまでもあきらめない、希望を持ち続ける、それが信仰なのです。

・バルティマイは癒しにより、目が見えるようになりました。彼はイエスが「家に帰りなさい」と言われたにも関らず、イエスに従ってエルサレムに行きます。バルティマイはイエスに従いました。彼はエルサレムでイエスを歓呼して迎える人々の群れを見ました。やがてイエスは捕えられて裁判を受け、十字架につけられます。歓呼して迎えた群衆は、イエスが彼らの求めるようなメシアではなかったことを知り、「十字架につけよ」と叫びます。目が見えるようになったバルティマイも、このイエスの十字架刑に立ち会ったことでしょう。

・イエスは多くの人々を癒されましたが、福音書に名前が記されている人は少数です。バルティマイがその後どのような生涯を送ったのか、私たちは知りません。しかし彼がマルコの教会で名前が知られていたのは事実でしょう。そのため、福音書に名前が残りました。イエスはバルティマイがこれまでどれほど苦しんできたかを理解されました。その彼が目を開けられ、イエスの弟子になることが許され、十字架と復活の証人とされていきます。

・私たちは言います「私は目が見える。私は自分一人で生きていくことが出来る。私は満ち足りており、何一つ不自由なものはない」。しかし、私たちの生活は危ういバランスのもとにあります。祝福されて結婚をし、子が与えられても、仮にその子に障害であれば家族の幸せは揺さぶられます。良い大学に入り、良い勤め先に就職しても、病気になり闘病生活が長引けば誰も振り返ってくれない世界に落とされます。誰かに起こる不幸が私たちに起こっても不思議ではないのです。ある時恵みを取り去られて始めて、それまでの自分の生活が「主の恵みの中にあったからこそ平安であった」ことがわかります。その時、私たちは見えるようになり、「自分が惨めなもの、哀れなもの、貧しいもの、裸のもの」であることを知ります。バルティマイは中途失明者でした。私たちこそバルティマイであることが、苦しみを通して明らかにされます、その時私たちは叫びます「主よ、憐れんで下さい(キリエ・エレイソン)」。そして叫びは聞かれます。私たちもまたバルティマイのような救われた経験を持つゆえに、今日、この教会に来ているのです。

・盲人バルティマイの粘り強い信仰の態度は、不正な裁判官に対峙するやもめと同じです。バルティマイは周囲にいくら止められても「イエスよ、憐れんでください」と叫び続け、その叫びがイエスから、「何をしてほしいのか」という言葉を引き出しました。真夜中の求めに出てくる主人公が置かれている状況も同じです。友人が来たのにパンがない、彼は友人のパンを求めて、夜中に隣人を訪ねます。訪ねて来た友人に食べさせなければいけいない。この人は明日自分の家族が食べるパンもない状況で友人を受け入れています。彼は必死に求め、神はその願いをかなえられます。「神に迷惑をかけてまで求めてよい、父なる神はそれを受け入れて下さる」という信仰がそこにあります。

・マーカス・ボーグは著書「キリスト教のこころ」の中で、私たちは伝統的な「超自然神」ではなく、イエスの教えられたインマヌエルの神を見出すべきだと語ります。天に鎮座される「超自然神」の神理解が、神を君主、立法者、審判者とみる考え方を導き、旧約においては「律法を守らない」者を処罰し、新約においては「イエスの贖いを信じない」者を破滅させる神という概念を導きました。それに対してイエスは、神は「愛と正義の神」であり、求める者に道を開かれる方だと言われました。イエスが対決したのは「律法の神」であり、イエスが唱えたのは「恵みの神」です。

・インマヌエルの神は「私たちの中に、私たちと共に、私たちの背後」におられます。「神に迷惑をかけてまで求めてよい、父なる神はそれを受け入れて下さる」というイエスの言葉は、神概念の転換を教えておられるのではないでしょうか。今日の応答讃美「戸口の外にイエスは立ちて」はヨハネ黙示録から採られています「見よ、私は戸の外に立って、たたいている。だれでも私の声を聞いて戸をあけるなら、私はその中にはいって彼と食を共にし、彼もまた私と食を共にするであろう」(ヨハネ黙示録3:20)。天に鎮座される神ではなく、共におられる神、いつでも私たちと食卓を共にして下さる方こそ、私たちの信じる神なのです。

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