江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年5月22日説教(使徒言行録26:19-32、神がして下さったことを証しする)

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1.アグリッパ王の前で弁明するパウロ

 

・使徒言行録を読んでいます。パウロはエルサレムで保守派のユダヤ人たちに襲われ、ローマ当局は彼をカイザリアの牢獄に幽閉します(23:33)。そのカイザリアにユダヤ教の大祭司アナニアが訪れ、パウロを正式に告発します。大祭司は、「パウロは疫病のような危険人物で、世界中のユダヤ人に暴動を伝染させるから排除すべきだ」と主張します(24:5-6)。それに対してパウロは「私は神に対しても人に対しても責められることは何もありません」と弁明します(24:16)。総督フェリクスは結論を出さず、パウロをカイザリアの牢獄に監禁し、パウロは二年間そこに幽閉されました。

・総督フェリクスは紀元53年、ユダヤ総督の地位につきました。彼の在任中(53-58年)、数多くの反ローマの暴動が起こり、暴動を鎮圧する際の非情さが、穏健なユダヤ人を怒らせ、さらなる暴動発生の原因となります。彼は奴隷出身の総督で、後に皇帝になったクラウディウスと親しく、パレスチナ総督に任命されています。しかし、彼の行政は腐敗と不正の温床となりました。歴史家タキトウスは「フェリクスは王の特権を奴隷根性で行使した」と酷評しています。

・パウロは2年間カイサリアのローマ総督府に幽閉されました。パウロを処刑する法的根拠はなく、逆に釈放すればユダヤ人が騒ぐからです。「あなたはローマで私を証しせよ」(23:11)と約束された主は沈黙しておられます。パウロにとっては試練の時でした。しかし、主は事態を打開されます。総督の交代により、状況は動き始めます。紀元60年、フェリクスが総督の地位を追われ、後任総督のフェストゥスが赴任します。新総督フェストゥスも前総督フェリクスと同様、ユダヤ人の歓心を買おうとして、パウロにエルサレムでの裁判を勧めますが、パウロは皇帝への上訴を希望します。パウロは前に進むためであれば、カイサリアでの長い幽閉にも耐えましたが、事態が後戻りするのであれば、合法的手段を活用して、道を開きます。

・パウロの上訴により、福音が帝国の首都にまで広がることになりました。パウロがロ-マ皇帝への上訴を決意したのは、エルサレムで裁判が行われれば、当然、ユダヤ人たちの恣意で不正な裁判が行われると考えたからです。しかし、当時のローマ皇帝はキリスト者迫害者として悪名高い「ネロ」(在位54-68年)でした。彼の許で裁判を受けるのもまた危険な行為でしたが、パウロはあえてその道をとります。田中正造が足尾鉱毒事件で明治天皇に直訴してその場で取り押さえられたように、パウロの上告も賭けに近いものであったかも知れません。

・新総督に挨拶するためにユダヤ王アグリッパ二世が訪ねてきました。彼はイエス誕生時にイエスを殺そうとしたヘロデ大王のひ孫であり(マタイ2章)、祖父ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを殺し(マタイ14章)、父ヘロデ・アグリッパは使徒ヤコブを殺し、ペテロを投獄しています(使徒12章)。ヘロデ家は初代教会とは因縁の家系でした。そのアグリッパ二世に総督フェストゥスがパウロのことを相談します。総督フェストゥスは、ユダヤ人の宗教に詳しいアグリッパ王の来訪を幸いに、王に告発状についての助言を求め、王は裁判に出席し、パウロの裁判が始まります。盛装したアグリッパ王と妻ベルニケをはじめ、千人隊長たち、町の長老など多勢を裁判に同席させ、自らの権威を誇示したフェストゥスは、裁判の開始を宣言します。それが今日の個所です。

・パウロは、総督や王の前で、自己の無罪を主張します。「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです」(26:6)。パウロが属していたファリサイ派は「終末の日における復活」の約束を信じていました。パウロは「自分はキリスト者を迫害する審問官だった。しかし、自分の熱心の方向性は間違っていた。復活のイエスに出会ってそれがわかった」と語ります(26:9-11)。パウロは自分の回心体験を語ります「私は・・・ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私と同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。とげのついた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました『私はあなたが迫害しているイエスである』」と言われました」(26:12-15)。ダマスコ途上でのこの出会いを通じて、パウロは回心し、キリスト教の伝道者になります。

 

2.パウロ、回心後の出来事を語る

 

・地に倒れたパウロに、イエスは「起き上がれ、私の証人となれ」と命じたとパウロは証言します。「起き上がれ。自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを証人にするためである。私は、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとへ遣わす」(26:16-17)。パウロはイエス・キリストの伝道者になり、そのことにより、ユダヤ人たちからは、「背教者」として命を狙われるようになりました。「アグリッパ王よ、私はこういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人は、神殿の境内にいた私を捕えて殺そうとしたのです」(26:19-21)。

・このパウロの回心体験は特殊なものなのでしょうか。違うように思えます。キリスト者は皆それぞれの回心体験、召命体験を持ちます。代々木上原教会の村上伸牧師は語ります「洗礼を受けた翌年、私は東京の神学校で勉強して牧師になりたいと秘かに決心した。だが、家の経済状態を考えると、そんなことはとても無理である。だから、この決心を中々言い出せずに悩んでいた。ところがある晩、教会での祈祷会から一人で帰宅する途中、突然、天から『死ねばいいではないか』という声が聞こえて来たのである・・・突然聞こえて来たこの声は、私の心を揺り動かした。パウロのように地に倒れたりはしなかったが、私は『我を忘れた』ようになった。あるいは、急な『めまい』に襲われた人のように暫く立ち尽くしていた。そして、これは『死ぬ気になって進めば、道は開ける』という神の声に違いない、と信じた。私は直ちに教会に引き返し、牧師に決心を打ち明けた。その時、今日までの道が決まったのである」。

 

3.神がして下さったことを証しする

 

・パウロは語りました「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか」(26:8)。世の人々は「十字架の贖いを信じ、復活に希望を置くことは愚かだ」と考えます。それは証明できない出来事であるからです。パウロを裁く立場にあった総督フェストゥスもそう考えました。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」(26:24)。パウロは同胞のアグリッパ王に入信を勧めましたが、王もまたパウロの宣教に心が動かされません。現在に満足している者は、福音の言葉を聞こうとはしません。必要がないからです。アグリッパ王はパウロに言います「短い時間で私を説き伏せてキリスト信者にしてしまうつもりか」(26:26)。それに対してパウロは語ります。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります」(26:29)。ローマ総督とアグリッパ王による審問が終わりました。パウロの熱弁も総督や王を動かすことはありませんでした。彼らは退場してから語ります「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」、「あの男は皇帝に上訴さえしておかなければ、釈放してもらえただろうに」(26:31-32)。

・今日の招詞にルカ8:38-39を選びました。次のような言葉です「悪霊どもを追い出してもらった人が、『お供したい』としきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい』。その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」。パウロは総督や王の前で証しをしましたが、その証しについて使徒言行録注解を書いたW.H.ウィリモンは語ります「私たちの証しは往々にして、『私は惨めでした』、『その私がイエスを見出した』、『今、私の生活は満たされ、私は幸福だ』というパターンになり、証しの主語は『私』となる。しかしパウロの証しは異なる『私はキリストの伝道者になることによって石を投げられた』、『私は今鎖につながれて囚人となっている』、『やがて行くローマで処刑されることも覚悟している』。パウロはそのことを卑下しない。パウロの証言の主題は『キリスト』であって、『パウロ個人ではない』」。「キリストがして下さったことを証しする」、その証しの方法を私たちは学ぶべきだ」。

・証しの主語は「私」ではなく、「キリスト」であることを、ウィリモンはパウロから学びます。主イエスの復活は科学的に証明できる事柄ではありません。それは「復活の主に出会う」という体験して初めてわかる出来事です。だから証しが必要になります。主イエスはパウロに語られました「起き上がれ。自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」(26:16)。復活の主はパウロに顕現されましたが、私たちにも顕現され、私たちが証し人として生きることを命じておられます。

・使徒言行録注解の翻訳者中村博武氏は述べます「使徒言行録は過去の物語である。それはこの世の支配の中で、信仰によってあるべき世界を呼び起こし、その世界を目指してきた人々の物語である。その背後に意味と一貫性を与えている活動主体は神である。この物語は復活の主が今も生きて働いていることを証しすることにより、私たちに新たな世界観を提示し、新たな現実を開示し、私たちの人生を変革する力を持つ」。ローマ総督がイエスを処刑し、ローマ皇帝がパウロを処刑しても、福音を語る者を沈黙させることは出来ませんでした。福音は「キリストにある愚者」を作り出し、彼らが「復活の主が今も生きて働いておられる」こと証し続けてきたからです。「ヴィジョンを与えられて、死ぬ気になって生き始めた時、主の声が聞こえ、道が開ける」体験を私たちはします。私たちがキリストにある愚者としての役割を継承したその時、使徒言行録は今も続く証しの書となります。

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