江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年3月13日説教(マルコ14:10-26、裏切る弟子たちとの最後の晩餐)

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1.弟子たちの裏切り

 

・マルコ福音書は16章で構成されていますが、14章から受難週の日々の出来事が克明に語られていきます。マルティン・ケーラーという聖書学者は、マルコ福音書を「長い序文付きの受難物語」と表現しました。1-13章は序文であり、本当の物語は14章から始まると彼は理解したのです。14章は祭司長たちや律法学者がイエスを捕らえて殺す方策を立て始めた記事から始まります。「過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、何とか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」(14:1)。それに応えて、弟子の一人ユダはイエスを裏切る覚悟を固めています「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」(14:10)。

・イエスは日曜日にエルサレムに入られ、五日目の木曜日は過ぎ越しの祭りの最初の日、その日には種無しのパンを食べ、子羊を屠って食べる慣わしでした。弟子たちはイエスに尋ねます「先生、今日は過ぎ越しの食事を祝う日です。どこで食事をする準備をしましょうか」(14:12)。イエスは言われます「エルサレムであなたたちと食事をする為に既に部屋をお願いしてある。そこに行って準備をしなさい」(14:13-15)。こうしてペテロとヨハネが先に行って準備を整え、日が暮れた後、イエスと他の弟子たちがその家に集まりました。

・その食事が、イエスが地上で弟子たちと取られた最期の食事でした。イエスは最期の晩餐の席上で言われます「あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」(14:18)。弟子たちは一人一人言い始めました「まさか、私のことでは」(14:19)。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「最期の晩餐」で有名な場面です。私たちは、イエスを裏切ったのはイスカリオテのユダだと知っているので、他の弟子たちの言葉は異様に聞こえます。何故それぞれの弟子たちが「あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」とイエスが言われた時に、うろたえて「まさか、私では」とお互いに顔を見合わせたのでしょうか。やましいところがなければ憤慨して「私ではありません」と言うのが普通です。弟子たちがうろたえた理由は、弟子たちの中にもイエスに失望し、離れていこうという気持ちがあったからではないかと思えます。今日は、弟子たちのこの言葉を手がかりに最期の晩餐の出来事を共に学んで見ます。

 

2.過ぎ越しの食事としての最期の晩餐

 

・ユダヤ人にとって、最も大事な祭りは過ぎ越しの祭りです。神はかってイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、御手を伸ばしてエジプト人を打ち、イスラエルを解放してくださった。イスラエルを滅びから「過ぎ越して」下さった救済に感謝するのが過ぎ越しの祭りであり、祭りの最初の日には犠牲の子羊を屠り、種(酵母)を入れずに焼いたパンを食べて、この出来事を記念します。その過ぎ越しの食事をイエスは今、弟子たちと取ろうとしておられます。

・イエスと弟子たちは、夕暮れになった時、用意された場所に行かれました。一同が席について食事をしている時にイエスは言われます「はっきり言っておくが、あなたがたの中の一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)。イエスを裏切るユダの行動を察知しながら制止されなかったイエスの態度は謎めいています。太宰治は、ユダの一人語りの形式で、その謎を短編「駆け込み訴え」で書いています。太宰はユダが他の弟子の誰よりも、イエスを愛し、イエスに心酔していた。だからこそ、自分の期待から外れていくイエスに失望し、裏切ったのだと解釈しています。イスカリオテのユダ(カリオテ出身のユダ)は、他の弟子たちと異なりユダヤの出身であり、会計を預かっていたとされ(ヨハネ12:6)、能力は高かった。ユダは他の弟子たちと毛色を異にし、弟子団の中で浮いていたのかもしれません。弟子たちの中にユダの場がなかった。だからユダはイエスを裏切ったのかもしれません。

・他の弟子たちもイエスの最期の時が近づいていることに、薄々気付き始めています。しかし、彼らはユダと違い、イエスを裏切る行為をしているわけではありません。それでも彼ら自身もイエスを裏切りかねないと心のどこかで思っていたのです。晩餐を終えた後、一行は祈る為にオリーブ山に行きますが、そこでイエスは「あなた方はみな私につまずく」と言われます(14:27)。イエスを見捨てて逃げると言う意味です。それに対して弟子たちは憤慨して言います「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」(14:31)。やがてユダが神殿兵士たちを連れて、イエスを捕まえようとして来た時、弟子たちはすべて「イエスを見捨てて逃げ去った」(14:50)とマルコは書きます。弟子たちみんなが裏切ったのです。

・歴史的に言えば、イエスを十字架にかけたのはユダヤ教指導者たちであり、ローマの軍隊です。ユダヤの祭司長たちは彼らの宗教的権威に従わず、民衆に新しい教えを説くイエスを異端者として排除しようとしました。ローマ人たちは占領地ユダヤの民衆を惑わし、治安を乱すものとしてイエスを排除しようとしました。イスカリオテのユダはその動きに積極的に関与しました。他の弟子たちはイエスを見捨てることで消極的に関与しました。イエスを十字架につけたのはユダであると同時に、ペテロやヨハネたちでもあり、彼らもユダと同罪です。ただ、大きな違いは裏切った後、どうしたかです。ユダは自分が犯した罪の結末を自分でつけようとして自殺します(マタイ27:4-5)。「彼には帰る場がなかった」のです。それに対して、ペテロやヨハネも犯した罪におののいて泣きましたが(マタイ26:75)、弟子団に残り、やがて復活のイエスに出会い、赦しを受けて新しく立ち上がっていきます(ヨハネ20:21-23)。「罪を犯したことが致命的ではなく、その後にイエスの元に帰ることができたかどうかが決定的である」と聖書は語ります。

 

3.罪人であることを知る

 

・救いとは、神が既に自分を赦されていることを知ることであり、その第一歩は自分が罪人であることを知ることです。私たちもイエスの十字架死に直面したら、恐怖のあまり逃げる存在であることを知ることです。今日の招詞にヨハネ8:10-11を選びました。イエスが姦淫を犯した女を赦される場面です。「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。

・律法学者たちはイエスを罠にかけるために、姦淫の現場で捕らえた女を連れて来て尋ねました「律法では姦淫を犯した女は石で撃ち殺せと教えますが、あなたはどうされますか」。イエスは答えられます「あなた方のうちで罪のない者が先ずこの女に石を投げなさい」。聖書の罪には法律を侵す罪、英語のCrimeと、心で侵す罪、英語のSinの双方がありますが、ここではSinが問題になっています。姦淫は法律を侵す罪Crimeではありませんが、人間の信頼を裏切る行為Sinにあたります。イエスが「罪のない者だけがこの女に石を投げなさい」と言われた時、誰も女に石を投げることは出来ませんでした。自分は姦淫の罪を犯したことはないと神の前で明言できる人は誰もいなかったのです。イエスもまた女を赦されます「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。

・イエスがペテロやヨハネを赦されたのも同じです。「あなた方が私を捨てて逃げ去ったのは当たり前だ。人間は弱いのだ。でも、もうしてはいけない」。弟子たちはこの赦しで生まれ変わり、やがてイエスに倣って十字架で死んでいきました。弟子たちの殉教の死を見て、多くの人々がイエスこそ神の子であると信じ、教会が生まれていきました。イエスを十字架につけたのはイスカリオテのユダだけでなく、ペテロやヨハネもそうなのです。それを認め、悔改めて、赦しを待つことにおいてのみ、救いが与えられます。イエスはユダが悔改めて戻ることを期待された故に、最期の晩餐の席上であえて「私を裏切る者がいる」と呼びかけられ、ユダに対して、「人の子を裏切るその人は、災いである」と言われました(14:21)。日本語ではこの言葉はイエスがユダを呪われているように聞こえるが原文のニュアンスは異なります。「災い」と言う言葉は「私は悲しい」「私は痛む」と訳したほうが良い言葉です。イエスはユダが滅びるのを痛みに感じておられるのです。

・21節の後半の言葉「その人は生れなかった方が、彼のためによかった」という意味も呪いではなく警告です。その言葉を聞いて、ユダがこれからしようとしている悪に良心のとがめを感じて欲しいとイエスは思っておられます。イエスはユダの裏切りを知りながら、彼にも聖餐のパンをお与えになりました。イエスは自分の無事なことよりも、自分を殺そうとしている者の行く末を案じておられるのです。

・しかしユダはイエスの招きを拒み、過ちを自分で解決しようとして自殺していきました。ユダの罪はイエスを裏切ったことではなく、イエスの赦しを拒んだことにあります。もし、ユダがイエスの前に跪き、罪の赦しを願ったならば、イエスはユダを赦されたでしょう。何故ならイエスはユダの為にも死なれるのですから。イエスは先に言われました「人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、赦される。しかし、聖霊を汚す者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」(3:28-29)。すべての人は赦しの中にあり、唯一赦されないのは、赦そうとされる神の招きを拒むことです。ユダと他の弟子の違いはただその一点にあります。

・今ロシアのウクライナへの無差別攻撃で多くの市民の命が奪われています。人間は罪の中にあり、戦争を止めることができず、戦いの中で多くの人が傷ついています。今日の交読文詩篇130篇は、まさに私たちが今祈るべきことを教えています「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈る私の声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。私は主に望みをおき、私の魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます」。

・イエスを十字架につけたのは、ユダヤ教指導者であり、ローマ人であり、イスカリオテのユダでありましたが、同時に使徒と呼ばれるようになるペテロやヨハネたちでもありました。私たちもその場におかれたら、そうしたでしょう。「まさか私では」という問いに対し、聖書は「あなただ、あなたがイエスを十字架にかけたのだ」と語ります。聖歌113番は歌います「君もそこにいたのか、主が十字架に付くとき、ああ何だか心が震える、震える、震える、君もそこにいたのか」。私たちもそこにいたのです。そのような私たちが、姦淫を犯した女が赦されたように、罪あるままに赦され、もうしてはいけないと諭された時に、私たちの生き方は変ったのです。教会はイエスの教えを守る正しい人たちの集まる場所ではなく、自分が罪人であることを知り、泣いて赦され、新しい生き方を探し始めた人たちが集まる場なのです。

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