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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年12月18日説教(ルカ1:39-45、主の恵みを信じ、喜ぶ) 上原一晃

投稿日:2022年12月17日 更新日:

 

1.マリアのエリサベト訪問

 

・待降節第三主日の本日、与えられました聖書箇所はルカ1章39~45節、「マリアのエリサベト訪問」と言われる箇所です。ルカは、洗礼者ヨハネの父、祭司ザカリアに天使ガブリエルが現れ、高齢の妻エリサベトが「男の子を産む」という預言を伝えます(1:5-25)。6ヶ月後に天使ガブリエルは、ガリラヤのナザレの町に現れ、マリアに、彼女が「神の子の母となる」ことを告げます(1:26-38)。本日の箇所は、この2人の女性が会う場面です。エリサベトは長い間子が与えられず、しかも高齢になっていたので、子を持つことは既にあきらめていました。ところがそのエリサベトが懐妊します。高齢で不妊の女性を通して洗礼者ヨハネが生まれた、そこに神の力が働いたとルカは理解しています。マリアもそうです。彼女はヨセフと結婚する前に、聖霊によって子を身ごもったとルカは記します。人間的には信じられない、だからマリアは言います「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。

・この不思議な体験をした二人の女性が、出会います。「あなたの親類のエリサベト」(1:36)とありますから、エリサベトはマリアの叔母さんだったのかもしれません。高齢になった叔母さんが子を身ごもった、そして自分も信じがたいあり方で子を身ごもった、その喜びと不安を分かち合うために、マリアが叔母さんの家を訪れます。エリサベトはマリアに出会うと、「あなたは女の中で祝福された方です。」(1:42)と言います。エリサベトは自分の身に起こった不思議な出来事がマリアにも起こったことを聞き、彼女を祝福します。この祝福がアヴェ・マリアです。「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。神の聖母マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。」という歌詞は、このエリサベトの言葉から採られています。

・その時、エリサベトの胎内の子が、「おどった。」(1:41)とルカは記します。ルカは成人した後のイエスと洗礼者ヨハネの関係が、このマリアとエリサベトの会話の中に先取りされていると記しています。やがてエリザベトの子、洗礼者のヨハネが神の国運動を始めた時、マリアの子、イエスはヨハネの許に行って洗礼を受け、そこからイエスの宣教活動が始まりました。洗礼者のヨハネは「イエスを教育し、世に送り出す」ための役割を果たしました。ここでエリサベトの述べた言葉、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(1:45)は重い意味を持つ言葉です。実のところ、二人にとって、この懐妊を受け入れることは勇気のいる事柄だからです。

 

2.聖霊による懐妊

 

・エリサベトに子が与えられる経緯をルカは1:5-25に記します。エルサレム神殿の祭司であったゼカリアに「妻エリサベトが懐妊して、預言者となるべき子が与えられる」との天使の告知がありますが、ゼカリアは妻が不妊の女であり、もう高齢になっていたので、これを信じません。しかし告知通りにエリサベトは懐妊します。彼女は主を賛美して言います「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(1:25)。古代ユダヤ社会では子を生めない女性は恥だと考えられていました。日本でも不妊に悩む多くの夫婦が不妊治療を行っていますが、なかなか子が与えられない現実があります。日本産科婦人科学会によれば、高齢出産とは「35歳以上の初産婦」を指します。エリザベトは何歳だったのでしょうか。50代、あるいは60代だったかもしれません。子を無事に産むことのできる年齢をはるかに超え、望みはなくなっていました。その彼女が懐妊した、「主は私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去って下さいました」との言葉はエリサベトの苦しみと喜びを如実に表しています。

・それから6ヶ月後、今度はナザレの少女マリアに主の霊が現れます「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)。天使はマリアに伝えます「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(1:31)。未婚のマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられます。マリアはこの知らせを聞いて困惑したと思われます。婚約中の女性が婚約相手以外の子を産む、それは人の眼からみれば不倫を犯したことになります。現に婚約者ヨセフもそう思い、マリアを密かに離別しようとします(マタイ1:18-19)。マリアは戸惑い、抗議します「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。夫なしに子を産む、社会の差別と偏見の中で身ごもることは大変なことです。
・天使は答えます「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神に出来ないことは何一つない」(1:35-37)。「神に出来ないことは一つもない」、その言葉を受けて、マリアはためらいながらも答えます「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。「何故私にこのようなことが起こるのか私にはわかりません。わかりませんが、あなたがそう言われるのであれば受入れます」とマリアは答えます。

 

3.主の恵みを信じ、喜ぶ

 

・今日の招詞にルカ1:46-48を選びました。次のような言葉です「そこで、マリアは言った。『私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。』」ヨハネの母エリサベトに祝福されたマリアは、「感謝の賛歌」を歌います。その冒頭の句が今日の招詞です。後に「マグニフィカート(ラテン語=神をあがめる)」と呼ばれるようになるマリアの賛歌は、今日でもカトリック教会でミサの典礼歌として歌い継がれています。新生讃美歌でも151番「わが心はあまつ神を」として残されています。

・マリアの賛歌はサムエル記上2:1-10(ハンナの祈り)やイザヤ書等の旧約の伝統に立つ歌です。そこには新約の教会にも継承された信仰が歌われています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」(1:51-54)。「権力のある、富んでいる者は、身分の低い人、飢えた人、貧しい人と場を入れ替わる」という運命の逆転こそ、イエスの福音(良い知らせ)の真髄です。イエスは語られました「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:20-21)。イエスの教えられた神は、「身分の低い人、飢えた人、貧しい人」に眼をとめて下さる方だとの信仰がここに歌われています。

・この物語は私たちに大切なメッセージを与えます。一つは、「子が与えられることは神の祝福の業だ」ということです。ユダヤ人は「子は父と母と神の霊から生まれる」と理解しました。現代の私たちは、「子は与えられるものではなく、造るものだ」と考えています。「造る」、そこには神はいませんから、造るのをやめる=人工妊娠中絶もまた人間の自由となります。2020年の日本での人口妊娠中絶は年間145,340件、986,175件の妊娠のうち14.7%は人口妊娠中絶という形で、生まれるべき命が闇から闇に葬り去られています。「子は与えられる」、「子は父と母と神の霊から生まれる」ことの大事さを今日、再確認したいと思います。と同時に母体の生命も守らなければならない事も重要だと言うことです。

・もう一つのメッセージは、「神にできないことはない」という信仰です。エリサベトもマリアも信じがたい言葉を受け入れ、「お言葉通り、この身に成りますように」と受け入れました。そこから偉大な物語が始まりました。「神が為されるのであれば、そこから出てくるすべての問題も神が解決してくださる」という信仰です。「御心のままに」とは、幸福も不幸も神の摂理(計画)の中にあることを信じて、その現実を受入れることです。救いはそこから始まります。

・エリサベトはやがて子を産み、その子は洗礼者ヨハネとして、人々に神の国の到来を伝える預言者となります。しかし、時の王ヘロデ・アンティパスの不道徳を告発したため、捕らえられて処刑されます。マリアもやがて子を産み、その子はやがてナザレのイエスと呼ばれ、多くの人々が彼に従って行きましたが、世を乱す者としてローマ帝国に捕らえられ、十字架刑で殺されます。二人の母親への「おめでとう」という言葉は、「やがて二人の母親の心を刺し貫く」(2:35)出来事に変わります。二人とも暴力によって子供を奪われていく困難な人生を歩みます。しかし、それは意味ある人生でした。マリアはイエスの死後、初代教会の祈りの輪の中に加えられ(使徒1:14)、多くの人がイエスの語られた福音により、「生きる力」を与えられるのを見ることが許されたのです。

・聖書の語る祝福とは、「幸福な人生を求める人に」与えられるのではなく、「意味のある人生を求める」人に与えられると思えます。意味ある人生とは何か、それを示唆する有名な祈りがあります。ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩「病者の祈り」として知られています。

「大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。より偉大なことができるように、健康を求めたのに、よりよきことができるようにと、病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を享受しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと、生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた。私はあらゆる人々の中で、最も豊かに祝福されたのだ」。

この祝福をいただくために、私たちは今日、ここに集められました。

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