江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年8月21日説教(イザヤ40:1-11、希望の訪れ)

投稿日:2022年8月20日 更新日:

 

1.イザヤ40章~慰めの知らせ

 

・8月から数回にわたって、イザヤ書を読んでいきます。イザヤ書には三つの預言書が合本されています。1章から39章が本来のイザヤ書で紀元前700年ごろに生きた「エルサレムのイザヤ」の預言であり、アッシリア侵略に揺れる国家危機の中で語られています。40章から55章は、ユダ王国が滅ぼされバビロンに捕囚となった民に対しての帰還預言であり(前540年頃)、「第二イザヤ」と呼ばれています。最後が56章から66章で、それから30年後のエルサレム帰還後の預言です(前515年頃、「第三イザヤ」と呼ばれています)。本日読んでいきますテキストは、この第二イザヤと呼ばれる箇所です。

・紀元前587年、イスラエルはバビロニア帝国に国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われました。有名な「バビロン捕囚」です。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、主の言葉が預言者に臨みます。「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(40:1-2)。母国の都エルサレムは廃墟となり、人々はエルサレムから数千㎞も離れたバビロンの地に捕らわれ人となっていました。50年の間に最初の捕囚民の多くは死に、今は二世、三世の時代です。彼らは祖父母や両親から故郷エルサレムの話を聞かされていましたが、そこはもはや彼らの故郷ではありません。見たことも行ったこともない地、彼らには無縁の地でした。彼らは、この異郷の地で生活を立て直し、生きようとしています。いまさら故郷エルサレムに戻れと言われても困惑するだけです。その民に、「服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来た」との預言者の声が響きます。「主のために、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(40:3-5)。

・聞くイスラエルの民は当惑しています。捕囚から50年、エルサレム帰還の意思はすでになく、このバビロンの地で生きようと決意している人々は、「帰ろう」と言われても戸惑うばかりです。50年はそれほどの長さを持った時間なのです。預言者も同じように戸惑っています「呼びかけよ、と声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(40:6-7)。「民に何を言えば良いのですか。民は既に故国帰還の希望などなく、この地で生きようとしています。それは主よ、あなたのせいです。あなたが祖国を滅ぼし、遠いバビロンの地に私たちを連れ来て、50年間も放置された。その民に、今さら何を語れと言われるのですか」。

・「何故あなたは50年間も沈黙を続けられたのか」と抗議する預言者の不信をねじ伏せて、主は言葉を語らせます。「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)。私たちは苦しみ、悲しみに圧倒された時、神が見えなくなります。神などいないのではないかと信仰が揺さぶられる時があります。預言者も同じ思いに苦しみました。50年間も何の訪れもなかったのです。しかし、神はその預言者をねじ伏せて言葉を語らせます。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」と。

 

2.希望の福音

 

・神の言葉は続きます「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」(40:9-10)。「解放の時が来た。良き訪れ、福音を伝える者は高い山に登って呼ばわれ」と主が語られます。

・イスラエルの民は、諸国民に救いを伝えるために、主により選ばれたと申命記は語ります「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から・・・あがない出されたのである」(申命記7:7-8)。しかし、イスラエルの民は、約束の地が与えられ、そこに定住し、豊かになると言い始めました。「自分の力と自分の手の働きで、私はこの富を得た」(申命記8:17)と。神は預言者を通じて繰り返し、彼等に警告されます「主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、私は、今日、あなたがたに警告する。あなたがたはきっと滅びるであろう」(申命記8:18-19)。

・私たちも順調な時には神を忘れます。神など必要がないからです。「私は自分の力で学び、自分の力でこの職を得た。そして、自分の働きで食べている。誰の世話にもなっていない」。私たちが神を忘れる時、隣人も忘れ、彼らのことを考えようともしません。私たちが恵みに感謝することを忘れ、傲慢になった時、神は私たちを裁かれます。私たちに与えられる悲しみや苦しみは主からの警告です。そしてこの悲しみ、苦しみを通して、私たちは神を呼び求め、神が応答されます。

・イスラエルの民は50年にも及ぶ捕囚という罰を受けました。それは長く、苦しく、つらいものでした。民は言いました「私の道は主に隠されている。私の裁きは神に忘れられた」(40:27)。その苦しみの中で彼らは必死に神の御心を求めました。「神は何故自分の民とされた私たちを捨てられたのか」、「神は何故、永遠の都と定められたエルサレムを滅ぼされたのか」、彼らは父祖からの伝承を読み直し、まとめ直していきました。その結果、旧約聖書の主要部分、創世記や申命記等が編集されていきます。民が砕かれ、悔改めた故に、旧約聖書が書かれ、彼らは今や聖書の民にまで育っていったのです。そして今、試練の時、苦しみの時は終わり、慰めの時が来たことを民は告げられます。預言者は語ります「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(40:11)。

 

3.私たちへのメッセージとしてイザヤ書を聞く

 

・今日の招詞に詩篇126:5-6を選びました。次のような言葉です。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」。主の裁きはその時にはわかりません。しかし時間が経てば裁きの意味が見えて来ます。私は2002年4月からこの教会の牧師として招かれましたが、教会の課題は2年間の無牧期間における教会の荒廃でした。そのことを考えるためにイザヤ書を読みました。2001年12月9日の説教では次のように語りました「この教会は無牧の2年間、苦しい時を過ごされたと聞いた。会堂にあふれていた人も一人去り、二人去っていった。しかし、主は残る者を与えられた。イザヤ40章は、全ての苦しみは主の業であることを告げる。そして苦しみは祝福のために与えられる。苦しみこそが祝福を受けるための準備の時である。新しく生まれ変わるためには一度死ななければならない。イスラエルの民が捕囚の苦しみの中で神の民とされていったように、教会も苦しみを通して神の民とされていく。そして聖書は語る『苦役の時は終った。慰めの時が来た。主が牧者となって、あなたたちを飼われ、導かれる』」。

・2002年1月13日にもイザヤ書の説教をしました「イザヤ42章の言葉を、この教会に語られた言葉として聞く時、何が聞こえてくるのか。この教会は江戸川の地に立てられた。地域に伝道したが、より良き民として、訓練されるために、教会が分裂し、牧師が去り、大勢の教会員も去ると言う出来事を経験した。牧師のいない2年間を通して、この教会に残った者は強くされた。神の民に相応しいものにされた。この地域にも、傷ついて折れようとしている人、絶望してその炎が消えようとしている人がいる。その人たちに向かって、語るために、私たちが選ばれ、訓練された。私たちは苦しんだ故に、苦しんでいる人々に語ることが出来る。それは、華々しい行いではなく、忍耐のいる行為である。呼びかけても答えがないこともあろう。失望があり、落胆がある。しかし、待ち望まれている(42:4)。『彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む』」。

・2002年2月10日の説教では次のように語りました「私たちの教会は大きくもなく、立派でもないかも知れない。それ故に、苦しむ者の声を聞ける。私たちは、信仰に優れた者でないかも知れない。それ故に、信じることのできない人たちに福音を伝えることが出来る。イスラエルと同じく、私たちも主がいかに恵まれたかを証するために立たされ、そのために必要な苦しみを受けた。今、解放の時を迎え、新しい使命を与えられた。試練の中で、人が散らされて行ったが、いつの日か人々は言うであろう『この会堂は狭すぎる。賛美するために、もっと広い会堂を与えよ』と。その日は来る。私たちはこの教会の回復に望みを置く」。

・それから10年後、2011年に、私たちに奇跡のように立派な会堂が与えられました。とても40名の民が建設したとは思えないような立派な会堂です。主は約束を守って下さいました。さらに10年が経ち、教会は今、新たな困難の中にあります。高齢化の波の中で、施設に入所され、家で療養される方が増え、礼拝に集う人の数が減少しています。教会員40名のうち、75歳以上の方が10名です。地方に転出された方もおられます。それに応じて、献金額は伸び悩み、会堂建築のための借入金返済負担が重くなっています。しかし私たちは「会堂を与えて下さった神は、私たちに必要な人や資金を与えて下さる」と信じます。今年の7月、コロナ感染者が急増する中で、8名の新来者が与えられました。主は生きておられると感じました。

・捕囚から帰国したイスラエルの民もすべてがうまくいったのではありません。帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でした。帰国翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々が帰国民を喜ばず、神殿の再建を妨害したからです。また旱魃により、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲いました。神殿の再建どころではない状況に追い込まれた人々はつぶやき始めます「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。これに対して、「そうではない」と言って立ち上がった預言者が、第三イザヤと呼ばれる人です。彼は言います「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59:1-2)。

・中断された神殿再建が再び始まったのはそれから20年後でした。神殿再建を導いたのは、ダビデ家の血筋を引くゼルバベルでした。人々は、ゼルバベルを王にいだいて国の独立を求めましたが、ペルシャ帝国によってゼルバベルは処刑されます。帰国しても苦難の連続でした。しかし、彼らは、捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜くことを通して民族の同一性を保持し、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシャ語に翻訳されて、多くの異国人がこのギリシャ語版聖書(セプチュアギンタ、70人訳聖書)を通して主に出会うようになり、聖書のギリシャ語訳が新約の時代を開いていきました。そしてこのイスラエルの民の中からイエス・キリストが生まれてきます。教会に与えられた困難はより良い教会になるための試練です。私たちは50年の歴史を通してそれを知った。だから主と力を合わせて、主の業に励みたいと思います。

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