1.何を信じるかが、どう生きるかを決める
・コロサイ書を読み続けています。コロサイ教会の中に異なる福音が侵入し、教会が混乱し、それを正すためにパウロは手紙を書いています。教会の一部の人々は、「禁欲すれば清められる」、「善行を積めば天国に行ける」、「苦行すれば救われる」と語っていました。それに対してパウロは「新しい人として生きなさい」と述べます。コロサイ3章で語られているテーマは、「新しい生き方、キリスト教倫理」です。キリスト教倫理とは「どう生きるべきか」を聖書から聞く学問です。「どう生きるべきか」は「何を信じるか」によって変わって行きます。だからパウロはコロサイ3章で、異端の教えに惑わされず、「十字架と復活の信仰」に戻れと語ります。
・2007年に東京バプテスト神学校の夏期講座で「現代におけるキリスト教倫理の在り方」が講義されました。講師は西南学院大学の寺園喜基先生でした。その時の聴講メモによれば、寺園先生は語られました「どう生きるか(倫理)は、何を信じるか(教理)で決定される。何を信じるかが重要なのだ」。私たちは行動の基準として「良心」を考えますが、良心とは本当の行動基準になりえないと先生は問われます「豚肉は汚れたものだと考えるユダヤ教徒は豚肉を食べることを罪と思うが、何を食べても良いと教えられてきた人にとっては豚肉を食べることは良心が痛む行為ではない。国を守るために敵を殺すことは正義だと教育された人は他者を殺しうるが、そうでない人は敵であれ人を殺すことに良心は痛む」。ユダヤ人の良心とギリシア人の良心は異なり、日本人の良心とアメリカ人の良心は異なる。人が自分の良心に従って行動する限り、違いが残り、そこに争いが起こり、平和はない。「良心は相対的なものであり、人間の良心を基盤にするこの世の倫理学は破れている」と先生は力説されました。
・それに対して、キリスト者は、「イエスが何を言われたのか、何をされたのか」を基準に倫理=生き方を考えます。そこでは良心ではなく信仰が基準となります。寺園先生は語られました「同じ信仰者でも、神の国をどのようにとらえるかで、倫理の内容は変わってくる。例えばユダヤ教徒は神の国はまだ来ていないと考えるから、地上のことよりも来世のことが重要になって行く。キリスト教原理主義者は、イエスは神の国そのものであり、現実に神の国は来たと考えるから、キリスト者はその代理者として、世を裁き、世を導くべきだと考え、そこから十字軍的な動き(イスラム教徒を攻撃し、イスラエルを擁護する)が出てくる。その中で、私たちバプテストは神の国は『イエスにおいてイエスと共に始まっているがまだ完成されていない』と考える。神の国は来たが完成していないと考えた時、この世の出来事は神の事柄になり同時に人の事柄になっていく。すなわち、神に仕えることは人に仕えることになっていく」。「どう生きるかは、何を信じるかで決定される。何を信じるかが重要なのだ」という議論には納得できます。
・今日、私たちは、コロサイ3章を読みます。パウロは語ります「あなたがたは・・・バプテスマによってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2:11-12)。だから「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(3:9-10)。この世の基準である古い人を脱ぎ捨て、キリストの十字架に示された新しい人を着る時、「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者・・・奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる」(3:11)ようになります。新しい人を着る時、ギリシア人とユダヤ人の差別、割礼を受けた者と受けない者の差別、奴隷と自由人の差別、この世的な差別はなくなり、異なる者の和解、キリストの平和が成立するのです。
・この言葉を受けて、コロサイ3:12以下の言葉が語られています。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(3:12)。新しい人を着るとは、「憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を着るということです。この意味を知るために、私たちはキリストに出会う前はどうであったか、古い人を着ていた時はどのような生き方をしていたかを知る必要があります。
2.新しい人として生きよ
・その古い人の生き方が3章5節以下に示されています。パウロは言います。「かつてあなた方は、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲に生きていた」。「みだらな行い、不潔な行い」は性的不品行を指します。当時の社会では、不倫や売春はありふれていました。そのような行為に人を走らせるものが「情欲」です。人間、特に男性にとって性的欲望の制御は困難な問題です。今日、都会の盛り場には性を売る店が乱立し、性犯罪や性的虐待は後を断ちません。学校の教師や公務員、警察官でさえも痴漢行為で逮捕されている現実が示すことは、如何に性的欲望が人間を支配しているかということです。だからある人たちは「禁欲」を強調しますが、禁欲によって問題は解決しません。人間は禁欲を守れないからです。次の「悪い欲望、貪欲」とは、私たちに中にある
エゴイズム、自分さえ良ければ良いという罪です。その罪の有様が8節に列挙されています「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」です。これは私たちの内に根強く巣食っています。自分のためであれば何でもする、相手を利用することも、攻撃することも、貪ることも平気で行う。「金の切れ目は縁の切れ目」、私たちは利害関係の中でしか、人間関係を生きて来ませんでした。だから人間関係に苦しんできました。
・かつて欲望のままに生きてきた私たちが、キリストの十字架に出会ってその古い過去に死にました。「バプテスマによってキリストと共に葬られた。そしてキリストの復活と共に新しい命をいただいた」、だから「新しい人を着よ」と命じられているのです。パウロは言います「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのです」(3:12)。その新しい生き方を示す二つの言葉があります。赦しと愛です。パウロは言います「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(3:13)。主が赦して下さったから私たちも隣人を赦していく。その赦しが愛になった時に、私たちは新しい人を着ます「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:14)。この新しい生き方は日々の生活の中で証しされていきます。ですからパウロは言います「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(3:17)。
3.それは与えられた環境の中で最善を尽くすことだ
・新しい生き方は日々の生活の中でこそ生かされます。それを具体的に示したものが、コロサイ3:18以下にある生き方です。そこでは、妻と夫、子と父、奴隷と主人の関係が記されています。18節では妻たちに対して「夫に仕えるように」命じられています。これは妻に夫への隷属を迫っているのでしょうか。しかし、パウロは夫にも言います「夫たちよ、妻を愛しなさい」(3:19)。古代において、「妻を愛せよ」という教えはありませんでした。当時、妻は夫の隷属物であり、愛する存在ではありません。従って、「妻を愛せよ、つらく当たってはいけない」と夫に呼びかけられていることは革命的な教えであったのです。この革命的な教えは信仰から出てきます。「主を信じる者にふさわしく夫に仕え、また夫は妻を愛せ」、信仰の行為として結婚を考えよと言われているのです。
・次に子どもに対して、「どんなことについて両親に従いなさい」と説かれています(3:20)。古代において、子が父に従うことは当然でした。しかし、ここでは父に対して「子をいら立たせてはならない」と説かれています(3:21)。当時の子どもたちは何の権利も持ちませんでしたが、その子どもの人格を敬えと言われています。しかも「主に喜ばれる」こととしてそうせよと。子が親に従う、親が子を人格として敬うことが、信仰の出来事として説かれているのです。
・最後に、奴隷は「主人に従え」と言われています。当時は奴隷制社会でした。その中で、パウロは「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい」(4:1)と勧告します。奴隷が主人に従うことを定めた戒めは多くありますが、主人に対して「奴隷を正しく、公平に扱うように」求めた文書は聖書以外ありません。奴隷は殺そうが、病気で死なせようが、主人の意のままであったのです。しかし、パウロは主人に言います「あなたはそうではあってはならない。あなたにも主人が天におられる」(4:1)。奴隷も主人も共にキリストのものだから、奴隷を痛めつけてはならないと命じられています。
・パウロは何故、子どもや妻や奴隷に従属を勧めるのでしょうか。それは従属する以外に、彼らの生きる道がなかったからです。子は養ってくれる親なしでは生きることは出来なかった。妻の経済的自立のない当時においては、妻は夫に従うしか生計の方法はなかった。奴隷もまた、主人に養われる以外の生存はなかった。他に選択肢がない状況下であれば、それを神が与えて下さった道として積極的に選び取って行きなさいと言われています。全ての人間関係を信仰の出来事としてとらえていく、それが新しい生き方です。
・今日の招詞に第一ペテロ2:23-24を選びました。次のような言葉です「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。キリストがののしられてもののしり返さず、苦しめられても報復されなかったように、あなた方も与えられた人生の中で最善を尽くせ、奴隷であることを逃れて新しい身分にあこがれるよりも、神があなたに奴隷の身分を与えて下さったのであれば、奴隷として最善を尽くして生きよとの信仰の選択が迫られています。
・パウロが説くのは、諦めの教えではありません。奴隷の身分から解放される機会があればその機会を生かせ、しかし奴隷であることを不当として主人の下から逃走し、一生を逃げ隠れして送ることが神の御心ではない事を知れと言われています。婦人に対しては、どのような夫であれ従えと言われます。不信仰な夫、かたくなな父、無慈悲な主人、このような生活の現実から目をそむけるな。現実に立ち向かえ、現実を神が与えて下さった導きとして積極的に従って行け。これこそキリストが為されたことであり、あなた方が従う道なのだとパウロは言っているのです。現代の状況に即して言えば、「仕事がつまらなくても辞めるな、そのつまらない仕事の中に意味を見出していけ、その時新しい展望が開ける」と言われています。
・これこそ主体的選択による「積極的従属」です。現在の境遇は神が与えてくれた。それに不満を言い、一時逃れの行為をしても、そこからは何も生まれない。むしろ、与えてくれた夫、与えてくれた父、与えてくれた主人を敬い、従うことを通して、道が開かれて来るのです。信仰の行為として、主人、夫、父に積極的に仕えていく、この世的に見れば損をする道を選び取っていくのです。その時、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8:35)というキリストの言葉が生活の中に実現し、隣人との和解、平和が生まれるのです。このような生き方こそ、新しい人の生き方なのです。