江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年2月27日説教(マルコ11:12-25,何故、いちじくの木を呪うのか)

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1.実のならないいちじくの木を呪われたイエス

 

・マルコ福音書を読んでおります。イエスは受難週の日曜日に、「ろばに乗って」エルサレムに入城されました(11:7-11)。馬ではなく、ろばに乗ってエルサレムに入城されたことは、「平和のメシア」、「柔和の君」の象徴行為です。ところがエルサレムに入城されたイエスが最初に行われたことは、「実のなっていないいちじくの木を呪い、枯らせた」出来事です(11:14)。イエスが本当にこのようなことをされたのか、そうであれば何のために為されたのか、私たちは不思議に思います。イエスがエルサレムに入城されたのは過越祭の時ですので、3月から4月にかけての時期です。いちじくの実がなるのは初夏の6月から7月、春先であれば、葉が繁っていても実のなる時期ではありません。マルコも記す通りです。「いちじくの季節ではなかった」(11:13)。実のなる季節でもないのにいちじくの実を取りに行き、実がないからといちじくを呪って枯らせるのは、理不尽ではないかとだれもが思います。この不思議な話には何か理由があるはずです。

・イギリスの哲学者バ-トランド・ラッセルもこの出来事に違和感を覚えた一人でした。彼は随筆「私はなぜキリスト教徒とならないか」の中で、イエスがいちじくの木を呪う箇所を取り上げ、「聡明さの点でも、徳の高さでも、他の歴史上の有名な人ほど、キリストが高いと私は思えない」と語ります。ラッセルは「キリストは愛と寛容の人なのに、何の罪もない、いちじくの木を呪い、枯らしてしまった」ことを、不信の理由としているのです。ラッセルは高名な哲学者でしたが、それでも「いちじくの木を呪う」物語の真意を理解できなかった。ラッセルほどの人が誤解するような不思議さがこの物語の中にあるのです。

・「いちじくの木を呪う」出来事は、イエスがエルサレムへ入城され、十字架に架けられるまでの受難週に起こった出来事の始めでした。記事を注意してみますと、12節から始まる「いちじくの木を呪う」記事は、15節からの「神殿清め」の話をはさんで、20節の「枯れたいちじくの木の教訓」へ続いています。マルコは「いちじくの木」の話を中断して、「神殿から商人を追い出す」話を挿入しています。その理由は明かです。彼は、「いちじくの木を呪う」記事と、「神殿から商人を追い出す」記事を結合して、イスラエルの不信とその不信の結末を、より強調する構成にしているのです。「いちじくの木を呪う」記事では、実らなかったイスラエルの信仰を暗示し、「神殿から商人を追い出す」記事では、神に仕えるべき者が背いている背信の事実を示しています。両者とも「象徴預言」と呼ばれる行為です。つまり、イスラエルの不信を言葉だけでなく、行為で示すことによって、悔い改めを求める行動であり、「腹が立ったからいちじくの木を呪った」訳ではないのです。

 

2.神殿から商人を追い出す

 

・「いちじくの木を呪う」記事の直後にある、「神殿清めの記事」を読んで行きましょう。「それから一行はエルサレムに来た。イエスは神殿に入り、そこで売り買いをしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々にこう言われた。『こう書いてあるではないか。「私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところがあなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった』」(11:15-17)。

・並行するヨハネ福音書の記事はもっと過激です。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない』」(ヨハネ2:15-16)。神殿で贖罪として献げる動物は羊か山羊と定められていましたが、貧しい人々にはそれらは高価で買えず、代わりに値段の安い家鳩や山鳩を身代わりに献げて良いと定められていました。ただ、犠牲の動物は、清く傷のないものとされ、その判定は、祭司の権限に委ねられていました。そこに祭司と動物を商う業者が結託する隙間が生じていました。また両替は当時流通していたギリシャやローマの貨幣をユダヤ貨幣(シュケル)に交換するため必要でした(外国の貨幣は汚れているため神殿に納めることは出来ないとされていました)。その両替を通して大きな利ざやが生じていました。民に仕えるべき神殿祭司が犠牲獸の販売や両替という商行為を通して民から利益を貪っている、イエスはそのことを批判されたのです。

・イエスは怒りにまかせて、商人を追い払ったのではなく、商人を追い払うという象徴行為を通して、本来の神殿のありかたを示されました。イエスはイザヤ書やエレミヤ書の預言を引用して語られます。「『私の家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである』(イザヤ56:7)。『ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった』(エレミヤ7:11)」。イエスの行為は命がけのものでした。ユダヤ教の信仰の中核であるエルサレム神殿を批判することは、当時の最高権力を否定する行為であり、例えれば、戦時中に靖国神社に行き、「戦争で死んだ人の魂がこの社に集うことなどない。それは人間の造った欺瞞だ」と批判するような行為です。事実、イエスはこの後に捕らえられ、裁判にかけられますが、主たる罪状は「神殿冒涜罪」でした。

・いちじくの木の呪いは、いつまでも信仰の実を結ばないイスラエルに対する裁きを象徴する行為でした。イスラエルの滅びの預言にいちじくの木が用いられたのは、いちじくがイスラエルを象徴する果物だからです。いちじくとぶどうは神の祝福の象徴でした。しかしその祝福に人々が応答しない時、祝福は取り去れます。エレミヤは語ります「私は彼らを集めようとしたがと、主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、私が与えたものは、彼らから失われていた」(エレミヤ8:13)。エレミヤの預言に続くものはバビロン帝国によるイスラエルの攻撃とエルサレムの滅亡でした。紀元前587年の出来事です。

・神殿から商人を追い出したのも、信仰の指導者であるべき祭司が神殿を利用して利益を貪り、本来のあり方から逸脱していることを批判する象徴行為でした(「あなたがたは祈りの家を強盗の巣に変えてしまった」)。実を結ばないいちじくの木を呪うことを通して、不信仰の結末は神の裁きによる滅びであることをイエスは預言され、神殿崩壊の預言は、たとえエルサレムに主の神殿があったとしても信仰がなければそれは崩れるとの預言でした。いちじくの木への呪いと神殿粛清はいずれも預言者の象徴行為であることを理解しなければ、イエスの行為の意味が分かりません。先に述べたように、いちじくはイスラエルを象徴する果物でした。その神の民が今は葉ばかりが茂り、神に対して実りなき者となっており、その結果、破滅しかない。この厳粛な事実を示すために、イエスはあえていちじくの木を枯らすという異常な行動に出られたのです。マルコでは神殿粛清の記事を囲むようにいちじくを枯らす行為が配置されています。この「いちじくの木を枯らす」という物語は、本来は神殿粛清の物語の一部なのです。

 

3.イスラエルの滅亡と復興

 

・今日の招詞にマタイ7:13-14を選びました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。祭司長や律法学者たちは自分たちの権威を保つことに汲々として、イエスの教えを聴こうともせず、批判したイエスを十字架にかけて殺しました。イエスの教えは彼らにとって狭き門でした。祭司長や律法学者たちは神の前に自らを低くして謙虚になることができなかった、だからイエスの言葉は彼らの心に達しなかった。祭司長や律法学者たちは滅びにいたる広い門を選んだのです。

・当時のユダヤはローマの植民地でしたが、起源30年のイエス死後、人々は武力で国土を解放するローマへの抵抗戦争(ユダヤ戦争)を始めます。ユダヤ人は神殿に立て籠り、ロ-マ軍に抵抗しましたが、紀元70年、ロ-マ軍の攻撃の前に、神殿は炎上し、数十万人が犠牲として死にました。他方砂漠のマサダ要塞に立て籠って抵抗した1000名の強硬派も、74年に集団自決に追い込まれ、その後ユダヤ人はエルサレムに立ち入ることを禁止され、離散の民となります。イエスが世を去ってわずか40年後に、「いちじくの木の滅び」と「神殿崩壊」の預言は現実となったのです。ユダヤ人にとって、紀元70年の神殿崩壊は、1940年代に起きたホロコースト(民族虐殺)と並び称される、忘れがたい歴史になっています。

・イエスはいちじくの木を枯らせることを通して、実のならない信仰が滅びに至ることを教えられました。ところで、聖書にはもう一つの「実のならないいちじくの喩え」があります。ルカ13章の物語です「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」(ルカ13:6-9)。

・イスラエルの象徴であるいちじくの木が三年たっても実がならず、園の主人は木を切り倒せと命じます。譬えのぶどう園主は神で、いちじくの木はイスラエル民族を指しています。何年経っても悔い改めの実を結ばないイスラエル民族を滅ぼせと神が命じられます。いちじくの木を伐採せよと命じられた園丁は、「もう一度手入れし肥料を与えますから待って下さい」と主人に願います。いちじくの木を懸命にかばう園丁はイエスでしょう。神はいつまでも実を結ばない民に対して、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と宣言されます(3:10)。しかしイエスの執り成しによって、私たちは切り倒される危機を猶予され、新たに肥料が与えられ、再生の機会が与えられます。

・ルカ21章にある別の「いちじくの木の譬え」も印象的です。イエスは言われました「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる」(ルカ21:29-30)。寒い冬の季節にいちじくはすべての葉を落としますが、春が来ると葉が出てつぼみが現れ、夏が来ると熟して美味しい実がなります。冬に裸のいちじくの木を見る人は、夏の収穫が見えません。しかし、いちじくの木は寒い冬の間に芽を出す準備をし、春になれば実をつけ、夏になれば豊かに成熟します。教会もそうです。コロナ感染症拡大により、教会に集められる人は少なくなりました。しかしイエスはその私たちのために、必要な肥料を与え、実がなることを期待しておられます。今は忍耐の時です。私たちの信じるイエスは「実がならないいちじくの木を呪う」方ではなく、「何とか実がなるように取りなしの祈りをされる」方です。バートランド・ラッセルが、いちじくの木の助命を願うもう一つの「実のならないいちじくの物語」を知っていたら、彼はクリスチャンになったかも知れません。私たちは「呪いではなく、祝福を運ぶ」ために、今日ここに集められていることを覚えたいと願います。

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