江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年2月20日説教(マルコ9:14-29、不信仰の信仰)

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1.弟子たちの不信仰

 

・マルコ福音書を読み進めています。イエスは三人の弟子を連れて山に登られ、その山で弟子たちは神秘体験をします。「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり・・・エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(9:2-5)。霊に満たされたイエスと三人の弟子たちは山を下って来ましたが、その時、ふもとでは、「他の弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれていた」(9:14)とあります。病気の子をもつ父親が癒しを求めて来ましたが、イエスが不在であったため、弟子たちに病の癒しを願いました。弟子たちは手を置いて癒そうとしましたが、出来ません。子の病気を治せない弟子たちを見て、律法学者たちは彼らの無能をあざ笑い、弟子たちは反論して言い合いになっていた、そこにイエスが山から下りて来られた。そういう情況でした。

・イエスを見た父親は言いました「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます」(9:17-18)。イエスは多くの病を癒され、悪霊を追い出されました。ここでも悪霊が問題になっています。子供の病気は今日で言う「てんかん」でしょう。マタイはてんかんと明記します(「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます」マタイ17:15)。てんかんは病気や事故で脳が損傷を受けた時に起こる病であることが今日では確認されています。しかし当時は、このような病は悪霊の働きと考えられていました。だから父親は「霊がこの子に取り付く」と表現しています。

・イエスは事情を知って嘆かれます「何と信仰のない時代なのか」(9:19)。弟子たちはてんかんの子の病を癒やせません。そのため、群衆から「病を癒やせないではないか、あなたたちは本当に神から遣わされたという評判のイエスの弟子なのか」と問い詰められています。律法学者は弟子たちを嘲笑し、弟子たちは言い訳をしています。弟子たちにとって、子どもの状態よりも、自分たちの正当性が疑われたことの方が重要でした。だから子どもは放り出して、律法学者と論争しています。目の前に困っている人がいるのに、宗教論議だけが際限なく続く状況に対して、イエスは憤られたのです。病の癒しは神の権能です。仮に子を癒やせなかったとしても、その子の汗をふき取って楽にしてあげるとか、抱きしめて共に泣くとか、出来ることはあるだろう。少なくとも律法学者と論争するより大事なことがあるのに、あなたたちはそれに気付いていない。だから、「あなたたちは不信仰なのだ」とイエスは言われています。

・不信仰の主体は病を癒せなかったことではなく、子の哀れさに配慮しなかったことだと言われています。マザー・テレサはインドで多くの人たちが路上で死んでいく姿を見て、「死を待つ人々の家」を開設し、路上の人々を運び、最後の看取りを始めました。彼女は癒しを行いませんでした。彼女がしたことは死んでいく者が人間としての尊厳をもって死ねるように、その人を抱きしめ、介抱したことだけでした。イエスが弟子たちに求められたことも同じです「神がこの子を憐れんでおられることに何故気付かなかったのか.気づいたとしたらやるべきことがあったろうに」、そのことをイエスは「不信仰」と言われているのです。

・病の癒しを求める信仰はこの世にはたくさんあります。キリスト教会の中にも癒しを強調する教派もあります。しかし聖書は、病の癒しを求める信仰は偶像礼拝であると教えます。「神は神であり、人間は人間です」、全ての力は神にあり、人間の側にはない。被造物にすぎない人間が祈ることによって癒しを引き出す、つまり神の権能を左右できるとしたら、その神は真の神ではなく、偶像の神です。私たちは病の癒しを神に願うことは出来ます。それは聞かれるかも知れないし、聞かれないかも知れない。聞かれない時、私たちの信仰が足らないとしたら主導権は私たちにあることになります。人間は信仰さえも神との取引材料にする。「あなたの信仰が足らないから癒されない」という言葉は、悪魔のささやきです。

 

2.父親の不信仰

 

・イエスは父親に向かって、「子を連れて来なさい」と命じられました。父親はイエスに言います「お出来になるなら、私どもを憐れんでお助けください」(9:22)。「お出来になるなら」、この言葉の裏には父と子の長い苦しみがあります。子供は幼い時からてんかんの発作に苦しんでいました(9:21)。父親は子供の病気を救ってやりたいとして、これまでも多くの医者を尋ね歩いて来たのでしょう。しかし、誰も治せなかった。今、一縷の望みを持ってイエスの弟子に依頼したが無駄であった。イエスでもだめだろう、父親はそう考えています。この父親は不信仰です。でも当然の不信仰です。何故ならば父親はイエスが誰であるかをまだ知らないからです。

・父親に対してイエスは答えられます「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(9:23)。「癒されるのは神である。そして神は私にその力を与えて下さった。これを信じるか」とイエスは問われました。父親は即座に言う「信じます。信仰のない私をお助けください」(9:24)。「これまで失望の連続でしたから信じきれない自分がいます、このような私にも神の恵みは与えられますか」という叫びが父親から出ています。イエスはこの父親の言葉を聞いて、子供を癒されました。

・22節では父親は「私どもを憐れんで下さい」と願っています。私ども、父親とてんかんの子です。しかし、イエスとの問答を受けた24節では「信仰のない私をお助けください」となっています。私たちではなく、私です。ここにおいて、もはや子の癒しが問題になっているのではなく、父親の救いが問題になっています。この事を知ることは重要です。私たちの信仰もこの父親と同じだからです。私たちは日曜日に教会に来ても、残りの6日間は世の人と同じ生活をし、同じ価値観を生きています。私たちは、神が養ってくださることを教えられながら、子供たちの教育費はどうしたらよいのか、家のローンの支払いは大丈夫か、このままでは老後が心配だ、と毎日わずらっています。私たちは神を知ってはいますが、神に人生を委ねてはいません。つまり神を信じていないのです。

・後に弟子たちが、自分たちは何故癒せなかったのですかと問うたのに対してイエスは答えて言われます「祈によらなければ、何も出来ない」と(9:29)。不信仰の自分、何も出来ない自分を認め、ただ神の憐れみを求める、それが祈りです。その祈りに答えて癒していただければ感謝をもって受入れる。仮に癒されなかったとしても、それが最善であることを知るから同じく感謝する。それが信仰です。癒すことが出来なかった、あるいは癒しを信じることが出来なかった、そのことが不信仰なのではなく、神が私たちを憐れんで下さることを知りながら、その憐れみにすべてを委ねることが出来なかった。そのことが不信仰だと言われているのです。

 

3.その不信仰を通して神が働かれる

 

・今日の招詞に第二コリント12:9を選びました。次のような言葉です。「すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。手紙を書いたパウロは、コリント教会の創設者で、教会を離れた後もいろいろな助言を教会に与えていました。しかし、教会の中には、「パウロはイエスの直弟子ではなく、以前は教会を迫害する人間だった」として距離感を持つ人もいました。別な人々は「パウロには使徒の資格があるのか」とさえ疑っていました。これは、パウロにとってつらいことでした。そのコリント教会にパウロは手紙を書きました。

・手紙の中でパウロは語ります「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです」(12:7)。「とげ」とか、「サタンから送られた使い」とは何を意味するのでしょうか。「私を痛めつけるために」と訳されている箇所は、原文では「サタンの使いによって、拳で打たれた」となっています。「拳で打たれたような苦しみがある」病気だと推測されます。またガラテヤ教会への手紙の中で、「この前私は体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」(ガラテヤ4:13)と語っています。持病が悪化したので旅程を変更し、療養に適した高地のガラテヤに行ったことを示唆しています。パウロの病気は「発作を伴うてんかん」であったと考えられています。彼はこのことを気に病んでいました。だから、パウロは、この病気を「離れ去らせてくださるように、三度主に願いました」(12:8)。「三度主に願った」、心をこめて、繰り返し神に求めた、という意味です。しかしその時にパウロに与えられた答えが今日の招詞です。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。「あなたにはてんかんという持病があるからこそ、あなたは謙遜になれるのだ」と言われたのか知れません。

・「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」、これは逆説です。自分が弱さに徹して何もできなくなった時にこそ、その無力な自分の内にキリストの力が強く現れるのです。パウロの生涯は、この逆説に貫かれた生涯でした。自分の弱さを認める時、そこに神の力が働くのです。信仰も同じです。E.シュバイツァーという聖書学者はマルコ9章を注解して言います「人はただ、自分の不信仰を知ることにおいてのみ、信仰という神の賜物を喜ぶことが出来る。自分の不信仰を認め、信仰のない私をお助けくださいという祈りこそ、私たちがなすべき祈りなのである」。

・信仰が足りないから癒されないのではありません。癒されないことも恵みであるから、癒されないのです。てんかんは天才病とも言われ、多くの偉人がてんかんだったとされています。たとえばドストエフスキー、パスカル、ジャンヌ・ダルクもそうだとされています。ロシアの作家ゴーリキィは語りました「病める貝殻にのみ真珠は育つ」。てんかんは一面では、悲惨な病です。この子供のようにてんかんで体が引きつり、口から泡を吹き、苦しみます。しかし、父親は子の病があるからイエスを求め、出会いました。子の病があったからこそイエスに出会えたとしたら、子の病は恵みとも言えます。パウロもドストエフスキーもそうです。病気や苦しみがあるからこそ、私たちは神を求め、求める人は神に出会います。

・賛美歌549番は歌います「天の御父に癒やし得ぬ悲しみはなし」、私たちを満たすものは病気の癒しではありません。私たちを満たすものは心の癒しです。病気がない、障害がないというだけでは心は満たされません。自殺する人の大半が五体満足であることは、体の健康だけで不十分であることを示します。私たちを満たすものは、心の癒しです。そして、心の癒しをもたらすものは、自分の限界を知る時です。その時、神が働いて下さる。自分の弱さ、自分の不信仰を知る者の上に神の力は働くのです。

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