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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年11月13日説教(エレミヤ28:1-14、くびきを担って生きる)

投稿日:2022年11月12日 更新日:

1.くびきの預言

 

・エレミヤ書を読んでおります。エレミヤは紀元前626年、20歳の時に預言者として召命され、「北から災いが来る。悔い改めなければお前たちは滅びる」との知らせを、人々に告げるように主に命じられます。18章では、預言開始から20年が経っても北からの脅威は現実化せず、人々はエレミヤを偽預言者として嘲笑し、エレミヤは自信を喪失していました。預言者は神からの召命によって起され、神から委託された言葉を語ります。それにもかかわらず、何の成果も出ない時もあるという厳しい現実にエレミヤは直面しました。それでもエレミヤは語り続けます。それからさらに10年が経ち、いよいよ北の大国バビロニアがエルサレムに攻め入り、エレミヤの預言が現実になっていく状況下で、28章が語られます。

・バビロニアはアッシリアを滅ぼし、エジプトにも勝利し、パレスチナはバビロニア帝国の支配下に入ります。ユダ王国もバビロニアに服従を誓いますが、やがて反乱を起こし、前597年エルサレムは占領され、ヨヤキン王や多くの指導者たちは、神殿財宝と共にバビロンに強制連行されます。その数は一万人とも言われています(列王記下24:14)。第一次バビロン捕囚です(バビロン捕囚は数次にわたって起こりました)。この時はユダ王国には王を立てることが許され、エルサレム神殿も破壊されなかったため、国民の悔い改めは起こりませんでした。ダビデ王家とエルサレム神殿がある限り、復興の望みはあったためです。新しく王となったゼデキヤは当初はバビロニアに忠誠を示しますが、国内ではバビロニアへの服従を説く和平派と、バビロニアからの独立を目指す交戦派の対立が続き、次第に交戦派の力が強くなっていきます。

・そのような政治情勢の変化の中で、エレミヤに、「くびきを首にはめよ」との命令が与えられます。くびきとは動物の首にかける木の枠で、牛や馬を統制するための農業用具です。そこから「くびきをはめる」とは、「重荷を担う」という意味に用いられます。「くびきの横木と綱を作って、あなたの首にはめよ。そして、ユダの王ゼデキヤのもとに遣わされてエルサレムに来た、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ティルスの王、シドンの王の使者たちに伝言を持ち帰らせよ」(27:1-3)。ここで言われていることは「バビロニア王のくびきを負え」、「バビロニア王に逆らうな」という意味です。しかし、諸国の王たちは既にエルサレムに集結し、エジプトの支援の下に、反バビロニア同盟を結成しようとしていました。エレミヤはこれに反対します。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる・・・私は、これらの国を、すべて私の僕バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え・・・バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王のくびきを首に負おうとしない国や王国があれば、私は剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる」(27:4-8)。

・「バビロンの王のくびきを負え」、神がバビロニアを用いて民の悔い改めを求めておられるのであれば、バビロニアに従うことこそ、神の御旨だとエレミヤはゼデキヤ王に語ります。「首を差し出してバビロンの王のくびきを負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいであろうか」(27:12-13)。世界情勢を踏まえれば、大国バビロニアに小国ユダが武力反抗をすることは無謀であり、それは国を滅ぼすことだとエレミヤは語ります。


2.ハナンヤとの対決

 

・そのエレミヤの前に、宮廷預言者ハナンヤが立ちます。宮廷預言者は王のために預言を行う者です。ハナンヤは語ります「イスラエルの神、万軍の主は言われる。私はバビロンの王のくびきを打ち砕く。二年のうちに、私はバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、私はこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、私がバビロンの王のくびきを打ち砕くからである」(28:1-4)。バビロン捕囚で捕虜となった王や指導者の帰還はユダの民全員の願いでした。だからエレミヤは語ります「アーメン、どうか主がその通りにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように」(28:6)。しかし預言者が語るべきは人間の望みではなく、神の言葉です。故にエレミヤはハナンヤに反論します「私があなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。あなたや私に先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」(28:7-9)。

・預言者たちは民の罪を見つめ、悔い改めを求めるゆえに、「戦争や災害や疫病」が来ることを預言します。「くびきを負え、悔い改め無しの救済はない」とエレミヤは語ります。しかし人々が聞きたいのは今現在の「救済」であり、今現在の「祝福」です。ハナンヤはエレミヤが首にはめていた木のくびきを打ち砕きました「主はこう言われる。私はこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルのくびきを打ち砕く」(28:11)。民衆は熱狂してハナンヤを称賛します。人々は自ら聞きたいことを語る人を求めるのです。当時の人々は「エルサレムに神殿があり、ダビデ王朝がある限り、神はエルサレムを守りたもう」と信じ、ハナンヤこそ正しいと信じた、あるいは信じたかったのです。

 

3.木に代えて、鉄のくびきが

 

・人は聞きたくないことを聞く必要があります。エレミヤは、悔い改めることをせず、「木のくびき」をはずした者には、「鉄のくびき」が与えられると主から示されます。「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木のくびきを打ち砕いたが、その代わりに、鉄のくびきを作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、これらの国すべての首に鉄のくびきをはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる」(28:12-14)。「鉄のくびき」とはエルサレムの徹底的な破壊であり、滅亡です。最初の捕囚から10年後(紀元前587年)、バビロニア軍は再び怒涛のようにエルサレムに侵略し、この度は王や王子たちを殺し、住民の多くを虐殺し、残った者を奴隷として捕囚し、エルサレム神殿は燃え、市街は廃墟となりました(第二次捕囚)。木のくびきを拒否したゆえに、鉄のくびきが与えられ、ユダヤはすべてを失ったのです。

・私たちが人生の中で「くびきを負う」とは、どういうことでしょうか。今日の招詞にマタイ11:28-30を選びました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の下に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」。多くの人は言葉の前半「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の下に来なさい。休ませてあげよう」を読み、感激します。しかし、本当に大事な言葉は後半にあります「私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。私たちもくびきを負うことが求められているのです。しかし、イエスが共に担って下さることにより、くびきの意味が変わってきます。洗礼を受ければ病気が良くなるとか、災いが来ないということはありません。信仰を持っても病気になる時にはなるし、死ぬ時には死にます。しかし、病気や死の意味を見つめ、祈り始めた時、状況が変わっていきます。

・先ほど讃美しました560番「夜は更けゆき」を作詞したのは、ドイツの詩人、ヨッヘン・クレッパーで、1937年の作詞です。ドイツではユダヤ人迫害が強まってきました。クレッパーは著名な国民作家でしたが、ハンニという名前のユダヤ人女性と結婚していました。彼女は離婚した前夫との間に二人の子どもがいましたが、彼はこの親子三人を心から愛し、ベルリンに自分たちの家庭を築きました。しかしヒトラーは、ユダヤ人追放を加速し、クレッパー自身もユダヤ人と結婚しているという理由で、帝国著作家協会から除名され、自由な執筆活動ができなくなります。その中でクレッパーは讃美歌の作詞に心を傾け、苦難の中で神に委ねる信仰を歌うようになります。その代表的な歌が賛美歌560番です。「夜は更けゆき闇は迫り、行く手は見えず暗きに泣く。されど友らよ、朝は近し、光る明星望みて待たん」(1節)、現在どのように闇が深くともその闇を破って朝が来ると彼は歌います。

・ナチスはクレッパーにユダヤ人妻を離婚せよと迫りますが、彼は拒否します。最後には妻と子は強制収容所に送られることになり、その前夜、クレッパーと家族は自宅で、ガスの元栓を開き、死んでいきます。1942年のアドベント、12月10日の夜でした。クレッパーは最後の夜の日記に書きました「妻と子を絶滅収容所に行かせるわけにはいかない・・・私たちはこれから死ぬ ああ、このことも神のみ旨の中にある。私たちは、今夜、一緒に死ぬ。この最後の時、私たちのために闘ってくださるキリストの祝福する像が私たちの頭上に立っている。その眼差しの中で私たちの生は終わるのだ」。クレッパーは絶望して死んだのではありません。彼は妻と子の尊厳を守るために、彼女たちと連帯して死を選び取っていったのです。(ヨッヘン・クレッパー「みつばさのかげに、愛と死の日記」、宮田光雄聖書の信仰第7巻から引用)。

 

4.くびきを担って生きる

 

・バビロン捕囚とは歴史的に見れば、大国バビロニアが小国ユダを征服し、その住民を捕虜として連れ去った出来事です。歴史上、ありふれた事件です。しかし、信仰の目で見れば、「神がバビロニア王を用いてユダの民を懲らしめ」、「その懲らしめを通してユダを救われる」出来事です。国の滅亡や捕囚を通して、神の救いの業がなされています。国を滅ぼされ、神殿もダビデ王家もなくなり、帰還の道を断たれた民は、バビロニアで生きることを受け入れ、神が何故自分たちを滅ぼされたのかを求めて、父祖からの伝承を集め、編集していきました。その結果、神を離れ、奢り高ぶった罪が罰せられたことが捕囚であることを知り、悔改めました。創世記や出エジプト記、申命記等の旧約聖書の中核が編集されたのは、この捕囚期です。イスラエルの民は捕囚、国家の滅亡を通して、ダビデ王家とエルサレム神殿を中心とする民族共同体から、神の言葉、聖書を中心にする信仰共同体に変えられて行ったのです。そして聖書は紀元前3世紀に当時の世界共通語であるギリシャ語に翻訳され(70人訳聖書)、民族を超えた正典になって行きます。各地に散らされたイスラエルの民はそれぞれの地にシナゴーク(礼拝所)を立て、ギリシャ語聖書を読み、そこに主を求める人々が集められていきます。バビロン捕囚という悲痛な出来事がなければ旧約聖書は生まれず、旧約聖書がなければ新約聖書も生まれなかったかもしれません。

・くびき、あるいは人生の重荷もそうです。人間的に考えれば、ない方が良い。しかし、くびきを負わなければ、罪を見つめて悔い改めなければ救いは来ない。病気のために生涯寝たきりの人生を送った、水野源三さんは歌いました「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現われなかった」。バビロン捕囚を人々は「滅びの出来事」だと思いましたが、エレミヤは「それは『平和の計画』であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29:11)と語ります。人は裁きを通して初めて悔い改め、その悔い改めた者に、祝福が与えられます。「病まなければささげ得ない祈りがあり、病まなければ信じ得ない奇蹟があり、病まなければ聴き得ない御言葉がある」(河野進・祈りの塔より)のです。

・ここには病気や死が呪いから祝福になっていく世界が示されています。私たちに予想もしない苦難が与えられることがあります。耐えられない重荷が与えられる時があります。その時、私たちは叫びます。「わが神、わが神、どうして」と。そのような叫びを通して私たちは神に語りかけ、神は応答されます「私のくびきを担いなさい。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」と。

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