江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年11月6日召天者記念礼拝説教(詩篇90:1-15、死を忘れるな、死を恐れるな)

投稿日:2022年11月5日 更新日:

 

1.死を忘れるな

 

・今日、私たちは召天者記念礼拝を行います。教会では11月第一主日に召天者を覚える礼拝を行いますが、これは教会の暦で11月1日が「聖徒の日(死者の日)」、亡くなった信徒たちのために祈る日になっていることを覚えてのことです。死者の日は、元々はケルトのお盆(10月31日、ハローウィン、秋の終わり・冬の始まりの収穫祭)に死者の霊が家族を訪ねてくる風習を教会が取り入れたものと言われています。私たちの教会では召天者記念礼拝にて召された方々のお名前をお呼びし、死の意味を共に考えていきます。今日は詩篇90編を通して死と生の問題について聖書の言葉を聴いていきます。

・詩篇90編がまず私たちに語ることは、「死を忘れるな」と言うことです。5-6節は語ります「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。朝は咲いていた花も夕には枯れる。人の一生もそのようにはかないと詩人は歌います。人は誕生し、少年期、青年期、壮年期を超えて、老年期を迎え、やがて死にます。人は生きているうちに何事かを為したいと思い、学び・働き・結婚し、家族を形成します。幸運に恵まれ、一代で財を成す人もいれば、多くの家族に恵まれる人もいます。健康に恵まれた人は70代、80代まで生きることが出来ます。しかし、振り返ってみれば、その人生は労苦と災いだと詩人は歌います。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(90:10)。

・詩編が歌われた当時の平均寿命は40歳に満たないとされています。二十歳の人が青春を迎えても、残りの人生は十数年にしか過ぎない。人生は空しいと感じたのは当然です。その中で70年、80年生きることの出来た人は幸運でした。ただ恵まれて長生きできた人でも、振り返ってみれば、「一瞬の人生だった」と詩人は歌います。現在の私たちは当時の人がうらやむほどの長寿を生きています。男女とも平均寿命は80歳を超えています。しかしいくら長寿になっても幸せとは思えない現実があります。多くの人は、80歳台を超えると心身が急に病み衰えるからです。健康寿命をみると男性は73歳、女性は76歳で、いずれも平均寿命より10年近く短い。つまり人生の最後の10年間は何らかの不健康状態で過ごすのが通例です。最後の十年間をどう過ごすか、教会が考えるべき課題です。詩人は願います「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」(90:14)。

・私たちは生まれ、活動し、死んでいきます。人生とは誕生と死の間にあるひと時です。多くの人は自分がこの限界の中にあることを認めようとしません。しかし詩篇は「私たちは死という限界の中にあることを覚えよ」と求めます。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(90:12)。詩人は、生涯の日を正しく数える、いつかは死ななければならない、ことを受け入れる知恵を神に求めます。

・かつての私たちは神や仏を信仰し、死を来世への移行として受け入れることができました。しかし現代、多くの人は信仰をなくし、今では、死はあってはならないものと受け止めるようになりました。パスカルは語りました「人間は死と悲惨を癒やすことが出来ないので、自分を幸福にするためにそれらを考えないようにした」。井上良雄氏も語ります「私たちは死の前に衝立を置いて、そのこちら側で営まれている生活を幸福な生活と呼んでいる。本当の幸福はそのような貧弱な幸福ではない」(井上良雄「終末時を生きる」から)。私たちにとっての死は、身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではない。死が他人事である限り、死について本気で考えない。死について考えないとは現在の生についても考えないことです。聖書は私たちに求めます「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」。

 

2.死を考えまいとする私たち

 

・私たちは死を考えまい、あるいは忘れようとします。その試みの一つが現在の生の肯定を通して、死から逃れようとする考え方です。私はまだ死んでいない、今しばらくは死なないだろう、生きているうちに充実した生を楽しみたいと世の多くの人は考えます。パウロはそのような生き方は空しいと語ります「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(第一コリント15:32)。このような生き方を「良し」とするのか。このような生き方、死を考えまいとする生き方はいつか破綻します。死は必ず訪れるからです。

・聖書は、人間の真の生き方は、「死を忘れないこと」、「自分の限界を知ること」だと述べます。有限性を知るとは自分が被造物に過ぎない、死に対する決定権が私たちにはないことを認めることです。そこから創造者である神を思う心が生まれます。死をおそれずに死と向き合う唯一の道は、命の創造者である神を覚えること、だから詩人は歌います「主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(90:1-2)。

・私たちは神に創造されました。それにもかかわらず私たちは死にます。それは何故か、罪の咎として死が与えられたと聖書は語ります。7-9節「あなたの怒りに私たちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたは私たちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。私たちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます」。罪の結果として、神の怒りとして、死があるとすれば、死から解放される道は神による罪の赦ししかありません。だから詩人は祈ります「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」(90:13)。詩人は神が正義の神である故に罪びとに死が与えられることを知ります。同時に神は憐れみの神であり、人が求める時、恵んでくださる方であることを信じます。故に願います「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたが私たちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、私たちに喜びを返してください」(90:14-15)。

・加賀乙彦氏は小説家であり精神医でもありますが、東京拘置所の精神科医官として多くの死刑囚と面接し、死刑囚が置かれている極限的状況下の心理を分析し、報告しています(「死刑囚の記録」中央公論社)。彼の報告によれば死刑囚の多くは宗教的になります。他方、無期囚の大半は無気力・無関心・無為に陥るそうです。死が近いと考える人は、今をどう生きるべきかを真剣に模索し、死が遠いと思う人は生の意味を考えない。死を体験することによって深い信仰に導かれる人がいることは、死を覚えることがいかに今を生きるかの問題でもあることを示しています。

 

3.死を恐れるな

 

・今日の招詞にコヘレト書9:9を選びました。コヘレト書は知恵文学と呼ばれ、人生の生き方を教える書です。コヘレトは語ります「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ」。コヘレトは「今、生かされて在ることを楽しめ」と語ります。それは、「与えられた現在を一生懸命に生きる」ことです。

・現在生きていることがどんなに価値あるものか、それは失ってみて初めて分かります。「あたりまえ」という詩があります。若くしてがんで亡くなった医師井村和清氏が、死を前に家族へ残した手記が「あたりまえ」という詩です。「あたりまえ、こんなすばらしいことを、みんなはなぜ喜ばないのでしょう・・・食事がたべられる、夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる、空気を胸いっぱいに吸える、笑える、泣ける、叫ぶこともできる、走りまわれる、みんなあたりまえのこと、こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない。そのありがたさを知っているのは、それを失った人たちだけ、なぜでしょう、あたりまえ」(「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」から)。死を知るからこそ、生きることの素晴らしさを彼は歌います。コヘレトが語るのは、現在「生きている、生かされている」ことの意味をみつめよということです。

・全ての人は死にます。その意味では人生は空しい。「しかし今、私は生かされている。そのことに意味がある」と考えれば空しさを克服して生きることができます。コヘレトは語ります「すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せる獅子にまさる」(コヘレト9:4)。人は死ねば人生をやり直せない。しかし生きているうちには、やり直しは可能です。アップルの創業者スティーブン・ジョブズは語りました「もし今日が人生最後の日だとしても、今からやろうとしていることを私はするだろうか」。「余命1年と宣告された」時にもなお、この事をするだろうか。そういう生き方を覚えるために、私たちは死んだ人を悼む召天者礼拝を行います。残された者は、「死ぬという大切な仕事」を託されて、今を生きるのです。

・死んだ後どうなるのか、誰にもわかりません。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じます。イエスによって死が乗り越えられた故に、私たちは復活の約束が与えられていることに希望を置きます。イエスの復活を信じる時、信仰者は今ここで永遠の命の中に入ります。永遠の命とは、死んで天国に行くことではなく、今、死の恐怖から解放されることです。パウロは語ります「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(第一コリント15:54-55)。私たちは、死とは終わりではなく、新しい命の出発であることを信じます。召天者記念式で私たちが覚えるべきことは、死を覚えて現在を一生懸命に生き、歳をとれば残された日々を大切にし、死ねば天に召されることを信じて委ねる生き方です。「死を忘れるな」、しかし「死を恐れるな」。これが聖書の語るメッセージです。

・精神科医フランクルは講演の中で人間が死ぬことの意味を語ります「ある人が訊ねた『いずれ死ぬのであれば、人生は初めから無意味ではないか』。その問いに私は答えた『もし私たちが不死の存在だったらどうなっていたのか。私たちはいつでもできるから、何もかも後回しにするだろう。明日するか、十年後にするかということが全然問題にならないからだ。しかし、私たちがいつか死ぬ存在であり、人生は有限であり、時間が限られているからこそ、何かをやってみようと思ったり、何かの可能性を生かしたり、実現したり、充実させようとする。つまり、死は生きる意味の一部になっている。死こそが人生を意味あるものにする」(フランクル「それでも人生にイエスという」)。死があるからこそ、この一度きりの人生は貴重であり、死に備えて現在を生きることこそが、「準備をして生きる」ことなのです。

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