江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年10月23日説教(エレミヤ18:1-12、造られた存在として生きる)

投稿日:2022年10月22日 更新日:

 

1.陶器師の家で神の言葉を聞いたエレミヤ

 

・エレミヤ書を読んでおります。今日は18章を読みます。エレミヤは紀元前626年、20歳の時に預言者として召命されます。エレミヤに与えられた預言は審判の預言であり、「北から災いが来る。悔い改めなければお前たちは滅びる」という内容でした。それから20年が経ち、エレミヤは40歳になっています。長い間ユダ王国を支配していたアッシリア帝国はバビロニアに滅ぼされ、世界史では覇権の交代がなされつつありますが、バビロニアはまだユダ王国の現実的な脅威にはなっていません。人々はエレミヤを嘲って言います「北から大軍勢が私たちの国に攻めて来て国は滅びるとお前は預言したが、敵は来ないではないか。お前は20年間も私たちを騙してきた。お前は偽預言者だ」。エレミヤは激昂し、悔しがり、落ち込み、主に訴えます「私を迫害する者が辱めを受け、私は辱めを受けないようにしてください・・・災いの日を彼らに臨ませ、彼らをどこまでも打ち砕いてください」(17:18)。エレミヤは彼を嘲笑する民への報復を求めています。預言者失格です。その彼に陶工(陶器師)の家に行けと内心の声が促します。それが今日の聖書箇所、エレミヤ18章です。

・エレミヤ書は記します「主からエレミヤに臨んだ言葉。『立って、陶工の家に下って行け。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう』。私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた」(18:1-3)。陶工はろくろを廻して粘土の形を整え、器を造ります。エレミヤが見ていますと、出来上がった器に満足できない時、陶工は一旦それを壊して、新しい器を造り直し、気にいるまで何度もその作業を繰り返します。日常的な、ありふれた光景です。出来事を見ていたエレミヤに、神の言葉が響いて来ました。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちは私の手の中にある」(18:6)。

・神はエレミヤに言われました「私は陶工であり、イスラエルは粘土だ。粘土を用いて何を造るか、あるいは何を壊すかは陶工の自由ではないのか。それなのにお前は私がイスラエルを滅ぼさないと言って文句をつける。お前が人々の物笑いになりたくないからだ。私が滅ぼすと言いながら20年間災いをもたらさなかったのは、イスラエルの人々が悔い改めるのを待っていたからだ。お前にはそれがわからなかったのか」。神の思いが次の言葉に現れています「ある時、私は一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が悪を悔いるならば、私はその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」(18:7-8)。神はイスラエルを救いたい、出来れば滅ぼさないで救いたい。だからお前に預言させ、イスラエルの人々の悔い改めを待っていたと神は言われます。しかしイスラエルは悔い改めません。悔い改めない民には裁きが、滅びが与えられます。故に神は言われます「ある時は、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、私の目に悪とされることを行い、私の声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」(18:9-10)。

 

2.人間の運命と神の摂理

 

・エレミヤ18章は重要な真理を私たちに伝えます。すなわち「人間の運命は固定的、機械的に決定されるのではない」という真理です。人間の運命は決定済みで変更できないようなものではなく、神に対して責任を持つ人間の自由な決断に委ねられている。私たちは罪を冒しますが、その罪を悔い改めた時には赦されて、新しい運命が私たちを待ちます。その時、与えられるはずの災いは取り止められます。逆に、悔い改めをしなければ、その人の上に災いが降ります。神は一つの民を「抜き、壊し、滅ぼす」こともできますし、またその民を「建て、植える」こともおできになる。そこに神の摂理と人間の自由意志との関係があります。しかし、イスラエルの人々は悔い改めませんでした。11節以下の言葉がそれを示しています「今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい『見よ、私はお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ』」とエレミヤは語るように命じられます(18:11)。しかし人々は答えます「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから」(18:12)。「私たちが何をしたというのか」、民は反論します。人々の罪の認識のなさがこのような回答を語らせ、ユダ王国は滅亡への道を辿ることになります。

・預言通り、ユダ王国は滅び、指導者たちは遠いバビロンの地に捕囚となりました。エレミヤの警告は無駄であったように思えました。しかし50年後、捕囚地バビロンに立てられた預言者(第二イザヤ)はエレミヤの言葉を語り直します「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか『何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない』などと」(イザヤ45:9)。そしてエレミヤから600年後、初代教会の伝道者パウロは、イエスを受け入れようとしないユダヤ人に警告します「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」(ローマ9:20-21)。エレミヤの預言は彼の生前には誰も耳を傾けませんでした。しかし、後の時代の人々はエレミヤの言葉を改めて聞き直し、立ち直る力を与えられたのです。

 

3.なぜ人に苦難が与えられるのか

 

・今日の招詞に哀歌3:30-33を選びました。次のような言葉です「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。哀歌はエレミヤが書いたといわれています。イスラエルは神に背き、その結果国の滅亡という裁きを受けます。町は焼かれ、民は殺され、国の指導者たちは敵の都バビロンに捕囚として連れて行かれました。その絶望の只中で叫ばれた歌が哀歌です。エルサレムの人々は全てを失い、食べるものもなく、町をさまよっています。人々はうめきます「 私は主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。闇の中に追い立てられ、光なく歩く。その私を、御手がさまざまに責め続ける」(哀歌3:1-3)。「私は言う、私の生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう」(哀歌3:18)。

・哀歌の言葉が私に与えられたのは、20数年年前でした。私は45歳の時に、長男との不和が原因で、信仰を問われ、もっと聖書を学びたいとして夜間神学校である東京バプテスト神学校に通い始めました。しかし、2年が経った時に、転勤で福岡へ行きました。福岡は日本のバプテスト教会発祥の地で、そこにもバプテスト神学校があり、勤めをしながら学びを継続することが出来ました。東京・九州両神学校の学びが終わった時、ちょうど50歳になり、それまでの勤めを辞めて、牧師になる決心をしました。同時に学びが十分でないという認識がありましたので、東京神学大学に入り、牧師と神学生という二枚のわらじを履いて新しい生活が始まりました。

・紹介されて赴任した教会は南部バプテストの宣教師に育てられた教会で、信仰は保守的、根本主義的でした。赴任してしばらくすると、一部の教会員の方から、私の説教が自由主義的でバプテスト的ではないという批判が起こりました。私の聖書理解は神学校で教えられた通りのもので、歴史的事実と信仰的事実を区分します。例えば、天地創造の記事は信仰的事実であり、歴史そのものではないと考えます。ですから現代科学が教える「進化論」や「ビッグバンによる宇宙の創造」を受入れます。それは保守的な人から見れば聖書を否定する危険思想に見えたのかもしれません。当初はお互いがもっと知り合えば誤解は解ける、教会は「主にあって一つ」だと考えていましたが、誤解は解けず、批判は高まって行きました。その中で一部の方から、「あなたが牧師を辞任するか、私たちがこの教会を去るか」という迫りを受けました。

・聴衆が批判的な時に、説教を語ることは難しいことです。毎日が地獄のようでした。何度も神に問いかけました「あなたの召しを受けて牧師になったのに、何故その職を辞めるように導かれるのですか」。エレミヤが感じた悲哀を私も感じました。神学校の友人たちに苦難を訴えました。その一人からの返書の中に、この哀歌がありました。「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」。最初読んだ時は、なんと冷たい聖句だろうと思いました。

・ただ心に残る言葉でしたので、葉書を机の前の壁に飾り、毎日眺めていました。次第に後半の言葉、「主は、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」が強く迫ってきました。繰り返し言葉を聴いているうちに決心が促され、翌年3月に教会の牧師を辞任しました。苦しい1年でしたが、振り返ってみれば、この時の経験が今の牧会生活の基礎になっているように思います。信徒と牧師は違う、信徒は牧師や教会を批判し、批判が入れられなければ教会を去ればよいが、牧会を委ねられている牧師にはそのような自由はない。牧師は、自分を捨てて仕える覚悟がないと勤まらないと知らされました。牧師を辞任した後の1年間は神学大学の学びに没頭し、やがて卒業と共に篠崎キリスト教会の牧師に迎えられ、20年が経過しました。

・その後、神学校の夏期講座で聖学院大学・平山正実先生の「死生学」を学びました。先生は精神科医として診療しながら、大学でも教えておられた方です。講義の中で、「痛みの意味」について言われました。「人は死や病を喜んで受入れる事が出来ない。出来れば避けたいと思う。それを人に受容させるものが痛みである。痛みは人間存在への危険信号である。医学の進歩はこの痛みを人生から排除した。癌の痛みも出産の苦しみも緩和ケアーで抑えられる。現代人は痛みに鈍感になり、その分、死や病の受容が難しくなっている。悪性の病気ほど痛みがない。死亡率の高い膵臓癌は痛みがない。糖尿病は沈黙の病と言われ、無症状のままで多臓器障害を引き起こす。痛みがない、災いがないことほど恐ろしいものはない。気がつかないうちに病が進行する」。

・「痛みがない、災いがないことほど恐ろしいものはない」。イスラエルの民は国を滅ぼされて初めて自分たちの罪を知りました。私は1年で教会牧師を解任されることを通して、牧師の職責の意味を知りました。平山先生は言われました「ドイツの哲学者ヤスパースは限界状況と言う言葉を用いてこれを説明する。人は限界状況(病、貧困、老、死等)に直面して自分の限界を知り、その時初めて生きる意味を問う。そこに宗教の場があるように思う」。精神医学の臨床経験から導き出された真理は聖書の語るところとまさに一致しています。痛み、破滅を通して、聞こえてくる神の言葉がある。そのような視点から聖書を読み直した時、御言葉が自分に語られていることを知ることが出来ます。「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。私にとって今でも珠玉の言葉です。

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